日岡神社(ひおかじんじゃ)。兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山。
式内社(小)日岡坐天伊佐佐比古神社(ヒヲカ)、旧郷社。
主祭神:天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと) 配祀神:豊玉比売命(とよたまひめのみこと) 鸕鶿草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
資料によると、 創建は不詳。社伝によれば、神武天皇東征の際に荒振神が悪行を催して悩ませたが、国津神の伊佐々辺命が謀を奏したため、荒振神を退治することができた。しかし伊佐々辺命は戦死してしまったため、天皇は戦勝を祈った玉依姫・草不合命の2柱(神武天皇の父母)に伊佐々辺命を配して、これら3柱を奉斎したとする。一方で根拠は詳らかではないが、天平2年(730年)の創建とする説もある。
境内は日岡山の南麓に位置するが、この日岡山には古墳時代前期から中期の古墳群(日岡古墳群/日岡山古墳群)の分布が知られる。中でも代表的な日岡陵古墳(前方後円墳、墳丘長約85.5m)については、『播磨国風土記』賀古郡条にみえる「褶墓(ひれはか)」と関連付ける説があり、それに基づいて現在では景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(ハリマノイナビノオオイラツメ)の陵に治定されている。
一方でこの「天伊佐佐比古」を孝霊天皇の皇子である「彦五十狭芹彦(ヒコイサセリヒコ)命(=吉備津彦命)」とする説もあります。 この人物は四道将軍の一人として西国へ派遣され吉備を平定したといい、『古事記』ではその際に針間(播磨)の「氷河之前」なる地(詳細不明)に忌瓮を据えてそこから攻めた旨が記され、播磨国とも縁のある人物です。 また共に吉備を平定した弟の「稚武彦命」は娘に「播磨稲日大郎姫」がおり、『播磨国風土記』の「印南別嬢(イナミノワキノイラツメ)」と同一人物と考えられ、播磨国の中でも特に当地付近に縁の深い人物であることが示唆されています。 この「播磨稲日大郎姫」が当社に安産祈願して「大碓命」「小碓命(=日本武尊)」を生んだともいい、安産の神としても信仰され...
Read moreThe Shrine is bigger than I thought it would be, and it was very quite for a public holiday, there's not much to do around the shrine, but they do a lovely Goshuin stamp for your book if you...
Read moreBeautiful shrine! A lot bigger than I thought it was going to be. Easy to find and near...
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