日本の刑場をみるに、川の近くにある、というのが共通点であるが、この今谷刑場はそうではない。甲府の山崎刑場も川の近くではないが、山崎刑場には4つの井戸があってそこに首をおとした、と言われている。 洗い流す水、というのが刑場にはもとめられるが、此処にはないようである。 ______________
❶【今谷刑場 参考 緑につつまれた光ケ丘団地風土記 1982年】
今谷刑場(1982年の書による)
明治元年(1868年)4月頃に、近所の者で強盗を働いた数人の男がいた。茨城の行商人を襲って金品をうばった、という。 行商人は襲われたときに抵抗をしたので、刃物で足をきられ、現在の千葉県行柏支店の前までたどり着いたが、出血多量で一命を落としたという事件である。
強盗達は捕らえられて、皆目隠しをされ、手足を縛られ、モッコにいれられて 八ヶ崎(現在の松戸市)の成島家(応急臨時裁判所)まで護送された。それから2か月ほどたつと、今谷で「斬首の刑」をおこなうという高札が辻々にたてられた、という。
刑の執行の様子をつたえる記事が残る。 「罪状を読み上げると役人は「なにかいいのこすことはないか」と強盗を働いた男たちにきいたという。彼らの中で一番若い16才の男が、「私の罪は一番軽いので、最後に首を切ってもらいたい。」と嘆願したという。役人は「罪の軽い者は先に首を切ったほうがよいのだ」といったという。死を前にして恐怖の時間が短いからである、とある。
強盗を働いた男たちは、この世の別れ酒を飲んだという。16才の一番若い男は、泣く泣く酒を飲み干すと、間髪入れずにくびをおとされた、という。」
今谷刑場での斬首はこの事件だけだと言われている。 _____________
❷【今谷刑場 参考 柏市史年表 1980年】
今谷刑場【1980年の書による】
[今谷刑場の沿革] 明治6年(1873年) 今谷刑場(現今谷上町)で罪人7名を処刑。 昭和40年(1965年) 教育委員会が文化財保護条例により今谷刑場を第一次文化財に指定する。 昭和41年(1966年) 市指定文化財に今谷刑場を指定 昭和46年(1971年)市教育員会が...
Read more【歴史探究】 ◉刑場...
Read more最後の刑の執行は明治 (19歳の強盗犯) で斬首でなくサラシ首だそうです。近くに家が建つようになり病人が絶えないなど市に苦情が来て地蔵を立てたり供養をしたそうです。/南に進むと光ケ丘団地がありそこには太田道灌と千葉孝胤の境根(酒井根)戦での首塚胴塚が数十基 内現存二基、聖徳大構内にもあります。また、大戦中麗澤大辺りに敵機墜落 上官は巣鴨送り...
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