多摩川は、古くから水運に利用されてきました。 川崎においても、第一次世界大戦のによる好景気の中で、足りなくなった工場用地の拡大を図るため、運河・港湾計画が立てられました。 川崎河港水門は、この計画の一環として将来の発展に備えるべく、当時、多摩川改修事務所長であった内務技師金森誠之の設計により、大正15(1926)年11月に着工され、1年半後の昭和3(1928)年3月に完成しました。 この河港水門は、2本のタワーと、タワーをつなぐ梁、そしてゲートによって構成されています。タワー頭頂部には、籠に溢れんばかりに盛られた、当時の川崎の名産品であった梨・葡萄・桃をあしらった巨大な飾りが施され、現在は残っていませんが、タワーをつなぐ梁の側面には、レリーフ状のエジプト形式の舟が描かれており、当時の金額で54万円を掛けて造られました。 その後、運河・港湾計画は、現在の川崎区を対角線に横切る大運河計画となって昭和10(1935)年11月に運河幅員33~40mの都市計画事業として内務省の認可を得ましたが、道路のような建築制限がないため、計画予定地内に工場や社宅が建てられ、また、戦時体制へ突入など、社会情勢の変化から昭和18(1943)年3月に廃止され、幻の大運河計画となりました。 尚、この川崎河港水門は、平成10年(1998)度に、国の登録文化財(建...
Read moreずっとここを訪れたいと思っていました。 事件を風化させたくないと思います。 上村君が周りに話していた隠岐の島の海は本当にとても綺麗なんです。あの事件がなければ度々訪れる事ができていたのでしょう。 私は彼の母親も含め許せないし、許さない。それぞれの親に翻弄された結果、尊い命が失われた。
子を持つ一人の親としやるせないし、悔しい。この怒りをどこにぶつけたらいいのか。 そのまま隠岐の島で育っていれば違った人生を歩んでいただろうに。 私自身、何度離婚切り出され、切り出そうとしたことか。でも、子供に負担掛かるし、養母・父の虐待が世間を賑わすのをニュースで見てきているから思いとどまった。
前夫と何があったかは知らない。でも…。 この地を訪れる寸前に何とも言えない胸騒ぎみたいなものを感じていたが、訪れて良かった。 手を合わせ心静かに祈りを捧げました。
あれから数年、遼太君が幸せな家庭のもとに生まれ変わってくれていることを願うとともに、母親を含め事件の関係者に、願わくば苦難な満ちた人...
Read moreIt's an old water sluice from the time japan was industrialising itself. It's not well kept and probably not in...
Read more