『古来八剱の里と呼ばれた当地木更津の総鎮守。日本武尊の東征で、浦賀から当地への渡航で海神の怒りを鎮めるために身を投げた妃橘姫を忍んで君去らずから木更津と呼ばれるようになった当地にに源頼朝が寄進した神領を起源とする由緒正しい神社。その後も木更津船の大坂冬の陣への貢献で家康から褒賞を受けるなど航海、商い、学業健康に霊験あらたかな神社である』
古来、京から房総方面には湿地帯だった東京都区部を通らず、海で相模から船で当地に渡るのが経路だったため、総国の上(京に近い)は現在の上総で、陸続きの下総がなんで下なんだ?と思い色々調べた経験がある。 現在でもブラタモリでも紹介された山砂の積出や古くは男女7人秋物語で川崎からフェリーが出ていたことで有名な木更津港を中心に海運で栄えたこの街の総鎮守である。 詳しくは、当社のホームページに由来は詳しいが社格は郷社だが(上総の一ノ宮は玉崎神社)日本橋に木更津河岸を与えられた当地の鎮守だけに海運や商売、そのほか近隣住民の心願に霊験新たかな神社である。 その昔ものすごく重要な案件でお参りしたところご加護あってか良縁に恵まれたり、自尊すぎること多く神願不要と礼拝しなかった時に予想外に願いが叶わなかったりなど、個人的には何か重要な時にはそれなりの気合が入ったお賽銭を用意して手水場で清めてからお参りすることにしている。 個人的には非常に霊験あらたかな神社として尊崇の想いを持ってお参りしている神社である。 アクセスも良く、観光名所としてのネームバリューが有名なるもの門前にアレな施設がある(これもまた昔の木更津の繁栄の名残とも言えるが)ものの、大変霊験あらたかな某山と一緒にお参りするのも一興であろう。 男女7人のころのフェリーから駅に連なる街並みは衰えること著しかったが、最近は再開発の槌の声も聞こえ、賑わいも取り戻せそうである。 神様に対して一個人がこんなこと言うのはどうかと思いつつも個人的に大変お勧めできる神社である。 あなたにも神...
Read more往古、このあたり一帯の地を八剱の里と呼び、里の神は八剱の神として祀られていた。 日本武尊は御東征の折り、相模よりこの地に船で渡ろうとするとき、暴風雨により転覆寸前となった。 妃橘姫が海の神の怒りを鎮めるため、尊の身代わりとなり御入水あそばされた。 尊は無事にお着きになり、姫の死を慎んでしばらく当社にご滞留され、後に御祭神として祀られている。 また地名の由来ともなり、尊は此の地を去ることをされなかったので、「君去らず」と呼び、訛って現在の「木更津」になったと伝えられる。 源頼朝公が、鎌倉開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営する。 天正十九年(一五九一)十一月、徳川家康公社領三石二斗の寄進を受け、御朱印の証を授与される 慶長十九年(一六一四) 大阪冬の陣で家康方に多くの船頭が召し出され、目覚ましい働きをした。これも八剱八幡神社の加護の賜物として、当社祠官を駿府城に招き銅鳥一隻に銀子を贈り神恩に感謝した。 宝暦二年(一七五二)大火に依り、社殿を消失。安永二年(一七七三) 現社殿を再建。 明治四年(一八七一)には弊社に列せられる。 大正三年(一九一四)七月社殿の大改修をする。 昭和五十五年(一九八〇)の改修に際し、格天井裝飾画(一六二枚)...
Read more創建年代は不詳ですが、かつてこのあたり一帯の地は八剱の里と呼ばれ、この里の神を八剱の神と称えたといいます。
第12代景行天皇40年、日本武尊御東征の折、相模国走水(横須賀市)からこの地に渡った際、浦賀沖で暴風雨に遭遇しました。
船が転覆寸前となりましたが、妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と海神の怒りを静めるため、身代わりとなって入水しました。
このおかげで、日本武尊は無事に浦賀水道を渡り、この地に着いたといわれます。
日本武尊は姫の死を悼んで、しばらくこの地に滞留して去らなかったので「君去らず」と呼ぶようになり、なまって現在の「木更津」になったと伝えられれています。
また、現在の東京湾沿岸の袖ケ浦市と習志野市に袖ケ浦という地名は、弟橘媛の着物の袖が流れ着いたという伝説から名付けられました。
右と左の袖のうち、片方が袖ケ浦市に、もう一方が習志野市に流れ着いたとされています。
源頼朝は鎌倉幕府開幕に当たり、神領を寄進して社殿を造営しました。
天正19年(1592)徳川家康は公社領を寄進し、御朱印の証を授与される。慶長17年(1612)に大阪冬の陣に際しては木更津から多くの船頭が召出され目覚しい働きをしたといわれます。
剱八幡神社の霊験加護の賜であるとして、特に当社の宮司らが駿府城内に招かれ、銅鳥1...
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