最近では応仁の乱に先立つ戦国時代の嚆矢ではないか、とも評価されている関東のグダグダの騒乱の原因の一つでもある「古河公方」が館を置いた城跡が公園として整備公開されています。日本史専攻の人でも「古河公方って何? もしかして食えんの?」レベルの人は多いでしょうが、それでワタシは十分だと思っています。正直覚える価値も無いですが、一応ご説明しますね(笑)。
まぁ、とにかく関東の中世史は分かりにくいのですが、原因はハッキリしていて権力の中心にある人々が「政治」に何の理想も目的もなく、場当たり的な権力欲、自己顕示欲、土地の所有や相続、恨みや復讐といった、見ているこっちの血圧が下がる程の低次元の論理を中心に闘争を続け、行動をしているからなんですよ。 オチのない落語のような「えぇ!今ので終わり?」的な展開が多く、「お前ら、ワルでも魔王でもいいから少しは目的意識を持てよ!」と連中を怒鳴りつけたくなります(笑)。
当初は、室町幕府関東支部の将軍権威の代行として鎌倉に「鎌倉公方」が置かれ足利尊氏の四男基氏が任命されていたのですが、当然ながら同じ一族として将軍にライバル意識を持つようになり、中央のコントロールが効かなくなってしまいます。ついには四代目持氏の時には謀反まで企て、幕府から追討を受け敗死するハメとなりました。
さらに、この後に数々の身内のイザコザや家臣との確執もあって、再び幕府の追討を受け鎌倉に居れなくなった五代目成氏は、当時関東の雄都だった古河に拠点を移してしまったのです。その最初の場所がこの公方公園という訳です。
現地で見ると、館が置かれていたのは御所沼に半島のように突き出した高台で、なかなかの要害の地だと言えます。舌状の細長い高台を幾つかに仕切って先端を一の曲輪とし、現在古民家が移築されている場所がニの曲輪だったとの事です。成氏は2年後にはすぐ近くに本格的な古河城を渡良瀬川沿いに築いて移ってしまいますが、その後もここは重要拠点として維持されていました。
ところで特に政治的理想もなければ土木等の専門知識も無い、内ゲバばかりで「権威」だけの古河公方を、なぜ関東の人々は喜んで迎え入れ城まで与えたのでしょうか。現在的価値観では存在意義が不明な無駄メシ喰らいにしか思えませんが・・・(笑)。
それは当時まともな法律も裁判所も存在していないので、紛争解決の裁定役として強力な「権威」が必要とされていたからなのです。紛争は主に親子兄弟など武家一族間での土地の所属、境界争い、官位の相続等でしたが、こういう場合どちらにも正義はなく自力で解決する事が出来なかったのですよ。
公方の鶴の一声で一族の次期当主が決まったり、あるいは当主は自分の箔づけに協力してもらったりと色々利用価値があったのです。要するに「権威」であれば何でも良く、有能無能は問題にならず実は足利氏である必然性すらなか...
Read moreKoga Kubo Park is gift of nature that arranged by Good Caring Japanese Government, the Government body much conscious about their people and work hard to make a healthy wealthy peaceful environment for their public. The Japanese Govt doing much harder effort to eradication COVID-19 to maintain joyful life of their people in this way the Green Parks are much...
Read more🌸櫻並木のメインストリート!! 古河公方と同時代の谷中村。
歴史は長き 7百年 興亡すべて ゆめに似て 英雄墓は 苔むしぬ 🎼文部省唱歌・鎌倉/芳賀矢一
室町後期戦国時代の鎌倉殿の館跡(城跡)。鎌倉公方第5代・足利成氏(あしかがしげうじ)公は関東内乱(永享の乱)に河川に恵まれた交通の要衝、古河に居を移し鎌倉殿として関東統治。
鎌倉の政治文化も共に古河に。
足利尊氏の子・基氏を鎌倉殿・鎌倉公方とし、関東統治の為に設置世襲。後に補佐役の関東管領・上杉氏(のちの長尾景虎(上杉謙信)に名跡)との確執から六代将軍足利義満(京都銀閣寺建立)と対立し関東戦国の遠因に。
足利成氏公が鎌倉から古河に本拠をかまえ鎌倉殿(古河公方・古河府)として五代、約1570年代まで君臨、戦国時代が始まる。(江戸築城は対古河公方の為)。 そうした歴史背景に思いを馳せ、公園の緑や風を感じたい~。
古河公方と同時期に始まる谷中村(現渡良瀬遊水地)の歴史。
かの地は江戸時代の古河藩領。開拓と築堤により荒野を沃土に変えた谷中村(現渡良瀬遊水地)。知らぬ方も多いかと~。 ここも公方館同様、古河の歴史にはとても縁の深い場所。 日本初の公害「足尾銅山鉱毒事件」。田中正造帝國議員は古河を拠点に、村民と共に村の存続活動に奔走。が、当時の行政により家屋破壊強制廃村の歴史!! 。
「我が魂は小中を守る!!」。 (現栃木県佐野市小中)。古里を愛した翁、故人の叫びです。
現行の法律において遺体ばヒドではなぐモノ゙として扱われる。 「大常識(新潮新書)P210より」。 百田尚樹・2023.11.20発刊。
現在の故人は田中翁のように法律上は魂にはなれない。 「死体埋葬許可証」。死体とは物体、行方不明者(国語辞典)!! この矛盾と疑問から行政に始めた、名称変更陳情書!! 故人への尊厳と遺族への哀悼を表す「御遺体納骨許可証」へ!! 何年も重ねる陳情は常に不採択(無回答)!! 百田尚樹氏に励まされ、この矛盾に陳情を重ねたい!!
「死生学」。 生者も故人も人権人格がある。1970年代に尊厳死、延命治療等の確立された学問。
昔は古河公方公園も渡良瀬遊水地も、背を覆う草木に埋もれていました。 が、現在の遊水地は整備され、訪れる人々に親しまれています。 しかし「旧谷中村史跡案内図」は表面的な解説のみで、歴史的解説は不十分。観光のみが目立ち、「日本公害の原点」とは殆ど知られていません!!
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