塩山小屋敷に所在する臨済宗の古刹・乾徳山恵林寺は、戦国時代の雄で甲斐国主 信玄(晴信)公とその子勝頼公の絶対的な庇護を受け、武田家滅亡後は徳川幕府の手厚い保護のもとに、甲斐国における臨済宗妙心寺派の一大拠点として、現在に法灯を輝かせてきた。 かつて継続院(武田信成)長興院(武田信縄)の位牌を収める子院があり、 長興院にあった武田信虎の塔が現存する。 その草創は、十四世紀の鎌倉時代にさかのぼる。 元徳二年(一三三〇)ときの甲斐牧ノ庄領主二階堂出羽守貞藤(道)の招請により、名僧夢窓疎石(夢窓国師)が二階堂氏の邸宅を禅院に改めて一寺を興したのが恵林寺の始まりである。 国師以後の歴代住僧は、古先印元・明叟斉哲・龍澈周沢・絶海中津などで、室町時代末に明叔慶が入寺して寺運が興隆し、鳳栖玄梁・策彦周良・希庵玄密ら室町時代の名僧・高僧が相次いで入山し、武田氏の外護も加わって繁栄した。 戦国時代には武田信玄公が寺の復興と保護に力を注いだ。 永禄六年(一五六三)検地を実施して寺領を定めた。 翌永禄七年に美濃の崇福寺から快川紹喜 (快川国師)を迎え、入山後は自身の菩提寺と定め、関山派 (妙心寺派)の寺院とし、このように快川に並々ならぬ処遇をもって接していることは、単に住職としてではなく信玄公が師と仰いでいたことがうかがえる。 信玄公は上洛の途次元亀四年(一五七三=天正元年)四月十二日駒場において五十三歳で逝去された。 臨終に際して喪を秘すよう遺言し、三年後の天正四年(一五七六)勝頼公のもと快川国師が大導師となり、躑躅ヶ崎の館で四月十六日に葬儀、つづいて二十六日に七回忌の法要を予修した。 天正十年(一五八二) 三月十一日、田野(甲州市大和町)の地で勝頼公が自刃し、武田家が滅亡すると、四月三日、織田信長軍は恵林寺にも進攻して全山灰燼とした。このとき、快川国師は山門楼上で火定されたと伝わるが、「安禅不必須山水 あんぜんはかならずしもさんすいをもちいず」 「滅却心頭火自涼 しんとうをめっきゃくすればひもおのずからすずし」と遺したというエピソードはあまりにも有名である。 その後甲斐国を平定した徳川家康は、那須に逃れていた末宗瑞曷を招き再建を命じた。 末宗禅師は快川国師の弟子で子院の普同庵主であった。 禅師は自ら大鋸を引いて再建に努めたことから「木挽翁」と呼ばれ、その功績により中興開山とされた。 江戸時代の宝永元年(一七〇四)から享保九年(一七二四)にかけて、柳澤吉保公・ 吉里公の父子が甲府藩主となると、恵林寺に対し手厚い外護を加え、旧観を復するに尽力した。 柳澤氏の出自は武川筋 (北杜市武川町)の在地武士団 「武川衆」で、戦国時代には武田家に仕えていたことから、信玄公の菩提寺である恵林寺には特別な思いがあったのであろう。 正徳元年(一七一一)には自身の寿像(存命中に制作した像)を納めている。 また、享保九年(一七二四) 吉里公が国替えで大和郡山(奈良県)に移るにあたり、吉保公の菩提寺・永慶寺と定子夫人の菩提寺・真光院(いずれも甲府市)に納められていた什器、墓、鐘など一式を恵林寺に納めた。 このように発展してきた恵林寺には、武田家や柳澤家に関する貴重な文化財が数多く保存されている。 中でも「木造不動明王及二童子像(県指定)」は通称「武田不動尊」 と呼ばれ、信玄公を模した生き不動の伝承をもつ。 近年、調査により胎内銘が発見され、それにより元亀三年(一五七二)四月、仏師・康住により制作されたものであることが判明した。 康住は、当時京都で仏像制作を行っていた代表的な仏所である七条仏所の流れの一つ、七条西仏所の仏師とみられ、これまで作者と伝えられてきた康清の実弟と考えられる。 なお、元亀三年四月は、信玄公が亡くなるほぼ一年前にあたり、信玄公存命中に制作されたことがほぼ確実となった。 信玄公の命日である四月十二日に執り行...
Read moreIt’s so nice place for feeling Japanese spring. Now Sakura is full blooming. This temple is well known as place where Great Samurai warrior “Takada Shingen” has been sleeping. If you have a Japan Rail Pass and look for good place without Foreign tourists, you should come here.
Yamanashi prefecture is famous as a sweet fruit and wine area. I went “Ichigo-gari” before coming to here. You can enjoy to eat fresh sweet strawberries in spring. May to June, best season for cherry, July to September...
Read more書置きの御朱印いただきました。
鎌倉時代の元徳2年(1330年)に、甲斐国の守護職であった二階堂貞藤(道蘊)が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は甲斐における臨済宗の中心となり、古先印元、青山慈永、龍湫周沢や絶海中津らが勅命を奉じて輪番住持となる。後には足利義満により鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられた。応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
戦国時代に恵林寺は武田晴信(信玄)により再興される。天文10年(1541年)には臨済宗妙心寺派の明叔慶浚(みんしゅくけいしゅん)が28世として招かれる。明叔慶浚は飛騨国の国司・姉小路氏の被官である三木直頼の義兄で、美濃大圓寺(岐阜県恵那市岩村町)の住職であった。明叔慶浚は景堂玄訥の法嗣で、晴信に招かれるまで駿河国の今川義元に招かれ駿府の臨済寺(静岡県静岡市)住職として駿河に滞在していた。明叔慶浚は天文16年(1547年)に武田領国となった信濃伊那郡の那恵寺に招かれるが、飛騨へ戻ると禅昌寺(岐阜県下呂市)を再興した。
天文13年(1544年)には第29世として鳳栖玄梁(ほうせいげんりょう)が入寺し、開山派の僧として初の住職となった。鳳栖玄梁は岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく、甲府長禅寺住職)・希菴玄密(きあんげんみつ)の法兄で、天文15年(1546年)には積翠寺(甲府市上積翠寺町)における晴信主催の連句会にも出席している。
『葛藤集』によれば、永禄6年(1563年)には、明叔慶浚と同様に美濃大圓寺の住職であった希菴玄密が恵林寺と継続院両寺の住職として招かれる。希菴玄密はこれに応じるが、恵林寺に入寺するとすぐに弟子の快川紹喜に住職を譲り、大円寺へ戻った。希菴玄密の甲斐における足跡では、同年5月には大井夫人13回忌の香語を読んでおり、永禄10年(1567年)には武田家御一門衆の穴山信君の求めに応じ、信君の父である穴山信友の肖像に讃文を寄せている。
永禄7年(1564年)には武田氏により寺領が寄進された。永禄7年(1564年)11月に美濃崇福寺から快川紹喜が招かれる。快川紹喜は美濃土岐氏の一族で、臨済宗妙心寺派・開山派の仁岫宗寿の弟子。快川紹喜は天文22年(1553年)にも恵林寺へ入山し、天文24年(1555年)5月7日には信玄の母・大井夫人の年忌を務めており、この翌年に美濃へ戻り崇福寺住職となっていた。
快川紹喜は恵林寺住職となると、恵林寺を信玄の菩提寺と定めているほか、美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わっている。『武家事紀』によれば、天正3年(1575年)4月には武田勝頼が喪主となり信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われ、快川紹喜は導師を務める。七回忌法要の際には香語「天正玄公仏事法語」を読んでいる。快川紹喜は勝頼の代にも政務顧問的な役割を果...
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