Great temple with quite important significance. This temple is the beginning point of the Choishimichi pilgrimage trail to Koyasan.
The temple itself is dedicated to women and their health, as women were not allowed into Koyasan until the 1800s. It was dedicated by Kobodaishi to his mother, who could not enter the town.
The hike itself is about 8 hours at a leisurely pace. First 2 hours are quite steep but the rest is quite nice. You can find frogs, mountain crabs, and snakes if you pay attention to the sides of the trail.
Don't forget to...
Read more女人高野「慈尊院」は、和歌山県九度山町の高野山のふもとに建っているお寺です。 慈尊院は、弘仁七年(816)、弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。 <慈尊院の由来> 大師の御母公(玉依御前 : たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子の開いている山を一目見たいとの一念から、ご高齢にも関わらず当院へ参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられた。承知二年二月五日に、御母公が入滅された時に大師は、母公が弥勒菩薩になられた霊夢により廟堂を建立して、自作の弥勒仏と御母君公の霊を安置された。慈尊院とは、弥勒菩薩の別名で、これより表向きに「慈尊院」と呼ばれるようになりました。 <信仰> 弘法大師御母公との結縁寺として知られるようになった慈尊院では、大師の御母公(玉依御前)の化身とされる弥勒菩薩さまへ「子宝、安産、育児、授乳、病気平癒」を願って、「乳房型絵馬」をご奉納して祈願するという日本全国でも珍しいお寺。女人高野と称される当院にはそのご利益を願って多くの女性により信仰を集めています。その他、慈尊院では各御祈願・ご供養も行っております。 <建造物に関し> ● 文明六年(1474) ご廟を現在の場所に移されました。 ● 天文九年(1540) 紀ノ川の氾濫により慈氏寺諸堂の大半は流れ、残った堂塔を弥勒檀に縮小移転し、 天文十年三月、落慶供養をされたが、高野山も政所の事務を山上に移し、宝蔵の什宝を すっかり山上に運び上げてしまいました。 ●...
Read more高野山の案内犬『ゴン』の活躍が有名ですね。
弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場としたそうです。諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺(慈氏とは弥勒菩薩のこと)の壇と併せて成立させた。同時に境内の南側に丹生高野明神社も設けられました。
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(頻繁にということの例え)は20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられたそうです。
空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになったそうです。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高...
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