三木市にある別所氏の居城三木城跡です。 神戸電鉄の上の丸駅を見下ろす小高い丘の上にあり、戦国時代に城としては、平山城に分類されます。
領主別所長治は、当初は織田信長に従い毛利討伐の先鋒隊として出陣しましたが、織田軍の上月城攻めでの虐殺や羽柴秀吉と叔父 別所吉親との加古川評定での不和が原因で、織田、羽柴との関係が悪化し、織田信長に離反し、毛利方に寝返りました。それに同調し、播磨の他の武将も別所長治を支援しました。
ただ、別所長治の叔父で、別所吉親の弟 別所重宗(重棟)は、吉親に従わず、羽柴秀吉方に付いたので、別所氏は本家と分家が戦う形となりました。
三木城は、上の丸と呼ばれる本丸、二の丸と三木城南東の高台の鷹尾城、宮ノ上要害、加えて秀吉軍に備えて天正6年に本丸の東側に築城された新城からなります。三木城の城壁のすぐ北には美嚢川が流れ、これが天然の堀となり、堅固な要塞となった三木城は、廻りに淡河城、丹上山城、志方城、神吉城等の支城で更に守りを固め難攻不落の一大要塞となっていました。
秀吉軍の軍師 竹中半兵衛は、この要塞化した三木城に、正面から攻撃することは困難であると秀吉に進言し、兵糧攻めの奇策で、三木城を攻略することを勧めました。 秀吉もこの半兵衛の奇策を実行し、天正6年3月から天正8年1月までの約2年にわたる三木城兵糧攻め、三木の干殺しと言われる戦いを展開することになります。
2年も籠城出来たのは、最初の頃は、城の井戸と城の下を流れる美濃川に抜け穴を掘り、船で兵糧を城内に運び込んでいたと云われています。 上流にある寺院が、竹筒の中に米を入れて流すなど、籠城する別所方を支援していたと伝えられています。 ただ、攻め手の羽柴軍には、竹中半兵衛、黒田官兵衛(途中、荒木村重に幽閉される)といった戦国時代屈指の軍師がおり、そのカラクリは明るみになり、その抜け穴が羽柴軍の手に落ちました。 竹筒を流した寺院は焼き討ちに。
たが、陸路からの兵糧等物資の輸送ルートも複数ありました。 花隈城、丹上山城から淡河城へのルート。明石城からの陸路のルート。高砂城から志方城、神吉城のルート。 羽柴秀吉は、その陸路の兵糧の運び込むルートを遮断するため三木城の廻りには、30余りの付城(つきしろ)及び多重土塁を築きました。
並行して、一大要塞三木城の支城をひとつひとつ攻略していきました 。 志方城、神吉城、そして丹上山城、淡河城と。
特に三木城の南側の包囲網は固く、明石からの毛利軍の兵糧の運び込みを困難にさせました。 這田村法界寺山ノ上付城を起点とし、宿原城までの約5.5キロメートルまでの間、複数の付城と多重土塁を廻らせ、敵兵が入るすきが無かったと云われています。
天正7年9月9日夜半、明石から大村付近まで兵糧を運んできた毛利軍と雑賀衆は、付城の包囲網を破って三木城に入るため、秀吉軍の豪将 谷大膳亮衛好が守護する平田山砦に夜襲をかけました。 それに示し会わせ別所吉親を主将とし三木城からも城兵3000余りが平田山砦に打って出ました。 この時、武芸にも秀でた別所吉親の妻も甲冑を身にまとい将として参戦したと云われています。 不意をつかれた豪将谷大膳亮衛好は薙刀を持ち奮闘するも、手勢は僅かで討ち取られました。 平田山砦の異変に気付いた秀吉は、平井山の本隊の援軍を急遽おくりました。 平井山からの本隊と廻りの付城からも援軍が入り、形勢は逆転、別所毛利連合軍は敗走する結果になりました。
別所軍は、城内の兵糧が不足していたので、体力が衰え、鎧が重くて戦いに成らなかったと云われています。
結局、雑賀衆は兵糧を三木城に運び込むことができず兵糧は秀吉軍に奪われました。別所軍も大将格七十数名を失い、兵も約八百失いました。 三木合戦で最も激しい戦いであったこの平田大村合戦は、秀吉軍の大勝に終わりました。
以後は城内の食べ物が無くなり、馬、犬を殺して食べたり、草や根まで食べる地獄絵図が展開されたようです。
天正8年の正月、秀吉は三木城から炊事の煙が上がらないことで、城内の兵糧が尽きたと確信し、総攻撃を仕掛けました。
同1月11日、別所長治の弟友之が守護する鷹尾城が落ち、続いて叔父別所山城守吉親(賀相)の三木城新城が落城しました。
残りは本丸、二の丸となり、別所長治が城内兵約7000人の命と引き換えに自害して果てました。
だが、約束は守られることなく、秀吉軍による城兵の大量殺戮が行われたとの説が有力です。 ただ、別所長治が自害した後で、別所方の武将 藤田広興、右近親子が自城...
Read more兵庫県三木市にある三木城🏯は、城主は別所長治です。天正6年「1578年」から天正8年にかけて織田信長と三木城の間で行われた三木合戦に関する城跡と土塁郡がある有名なお城です。三木城は上の丸台地に築かれた丘城です。本丸、二の丸を中心に、新城、鷹尾山「たかおやま」付城、宮の上要害などで構成されてた各曲輪が並立する城です。東西6キロ、南北5キロにわたり、40ヶ所の付け城をつくったといわれています。その内20か所がのこっています。こんなに良好にのこっている場所は日本中ありません。城の北側は美の川や切り立った崖、南側は、山や谷といった自然地形に守られた城です。天正8年「1580年」1月羽柴秀吉による1年10ヶ月に及ぶ兵糧攻め「三木の干し殺し」により落城しています。本丸は、少し高くなっていて階段で上がった上に本丸跡があります。そこに長治公の辞世の句碑が立っています。深さ25メートルあり、石を落とすとカンカンなることから「かんかん井戸」や、鉄砲狭間のある模擬城壁などもあります。本丸と二ノ丸の間には空堀も見ることができます。秀吉の建てた三木城の最前線に、鷹尾山付城には、横堀や3メートルある土塁がのこっています。三木市役所の直ぐ隣から登り口があります。また特徴的で貴重な遺跡として、三木城の南側に別所氏の菩提寺の法界寺、長治公の遺体が埋められている寺から程近い場所に法界寺山の上付け城跡とか、さらにその南側に高木大塚城跡などが残されていて、この二つの城の間に土塁「40から50センチで低い」を何重にもつくられている場所があります。この目的は、商人による物資搬送、毛利家からの兵糧を止めるため馬車や荷車が通れないように、南側封鎖線になっていて、しかも攻め上がる時には、攻められる高さになっているそうです。三木の干し殺しにより、城内の者は、牛、馬はもちろん、壁の藁も食べたと言われていて、数千人亡くなったと伝わっています。1580年遂に三木城は落城し、別所長治は、住人を助けることを条件に23歳の若さで自刃しています。本丸跡の長治公辞世の句碑に述べられています。城の中に、雲龍寺があった関係で、自刃の場所に招かれた住職に後事を託したといわれています。雲龍寺には、長治公と妻照子の首塚があります。三木城の城下町には、ナメラ商店街も通る「湯の山街道」と言われる街道があり、ここからも三木城に入る道があります。この街道は、羽柴秀吉が三木城を攻めた時の作戦行動に利用し、また戦傷者の治療に湯の山「有馬温泉」へ送る為整備したと伝わる街道なのです。参考に武田信玄の隠し湯も有名で、温泉を野戦病院として利用しています。長篠の戦いで敗北した信玄は真田昌幸に命じ群馬県の伊香保温泉を整備しました。秀吉も信玄のことを意識しているのかもしれません。アクセスは、三宮駅から阪急電車で新開地に行き、神戸電鉄に乗り換え三木上の丸駅下...
Read moreThis castle ruins was built since several hundreds years ago and acted as a hub for the ancient Japanese to connect between Kyoto and Osaka before it was taken over to the Himeji castle. The place was very easy to reach as it was near the Kobe dentetsu train station, the Mikiuenomaru. There is no entrance fee here. And you can sit and enjoy the scenery. A smoking area also...
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