城跡は私有地の為、立ち入り禁止となっています。 注意喚起の看板も複数枚設置されているので、訪れる際は地元の方に迷惑をかけないようにしましょう。 説明版は、城跡そばに整備されている『物集女城公園』に設置されています。
周囲は宅地開発されているが、主郭東側の土塁と堀が残る。
西岡地域のほかの土豪の城と同じように、周囲を土塁と堀で囲む城館の構えだった。主郭は東西50m×南北40~50mの方形で、東側に高さ2mほどの土塁が約30m残っている。土塁の外側をめぐる水堀は主郭北側と南側にもまわりこみ、「コ」の字型に主郭を囲む。
歴史 築城年代は定かではないが、物集女氏の居城として15~16世紀に機能したと考えられる。
物集女氏の名は長享元年(1487)の史料に登場する。物集女荘の荘官として勢力を拡大したと推定され、物集女村を本拠として成長。やがて西岡地域の自治体「国」を形成する有力な土豪「年寄衆」のひとりとなった。
天文19年(1550)頃から三好長慶が京都に勢力を伸ばすと、物集女氏はその被官となったようだ。織田信長が室町幕府を滅亡させると、細川藤孝がこの地域一帯の知行を許された。藤孝は信長の権力を背景に西岡地域の土豪に臣従を強要。しかし物集女城主の物集女宗入はこれに反発したため、天正3年(1575)9月に勝龍寺城下で誘殺された。物集女城もこの際、追討軍に攻められ落城したと考えられている。 遺構 周囲は宅地開発されているが、主郭東側の土塁と堀が残る。
西岡地域のほかの土豪の城と同じように、周囲を土塁と堀で囲む城館の構えだった。主郭は東西50m×南北40~50mの方形で、東側に高さ2mほどの土塁が約30m残っている。土塁の外側をめぐる水堀は主郭北側と南側にもまわりこみ、「コ」の字型に主郭を囲む。
主郭は畑などになっている。発掘調査が行われていないため、どのような建物があったかはわかっていない。南東部の張り出し部が主郭への虎口と推定される。主郭西側には、小さな堀を隔てて小規模な曲輪があったことが発掘調査で確認されている。さらに西側にも居住空間が広がっていたようだ。
西岡地域は、京都と摂津方面を結ぶ西国街道(播磨大道)と京都と丹波を結ぶ山陰道が貫通する。物集女城は、両街道を結び、嵯峨から山崎へ至る物集女縄手(物集女街道)と伏見道の交点に位置する物集女集落の中心にあった。物集女氏が地域社会の中で台頭できたのも、街道交通の掌握が背景にありそうだ。
また、物集女城は西から東に傾斜する扇状地の端部にあり、主郭北側と南側の堀の西端は傾斜地を上がる。東側に高い土塁と水堀と設けたのは、物集女縄手に対して城がよく見えるよう工夫したものと考えられる。
〈名称〉 物集女城 〈所在地〉 京都府向日市物集女町中条 〈分類〉 平城 〈築城主〉 物集女氏 〈築城年〉 室町時代後期 〈主な城主〉 物集女氏 〈遺構...
Read more発掘調査により、南北75m、東西70mの規模を有する城であったことがわかっています。物集女氏の居城と考えられ、長享元年(1487)の上久世庄(現・京都市南区)の古文書に、物集女四郎右衛門尉光重という名前も見受けられます。 織田信長が山城地方を治めるようになる天正元年(1573)、桂川西岸一帯の支配を任せられた細川 藤孝は、周辺の各城主に信長に従うよう命令をしました。 しかし、物集女氏の当主忠重入道宗入はこれに従わず、天正3年(1575)に勝龍寺城において殺されてしまいました。...
Read more許可を得て城域を踏査した。 土塁を伴う水壕が現存しているのはとても珍しい。
土塁は、幅7~12m、高さ1.0~1.5mの規模で、北東隅の一部と東辺45m分が残っている。 濠は、幅5~10mを測り、深さ1m以上あり、現在も水を貯えている部分は、昔から地域の人々の用水池として利用されてきた。 こうした遺構から、城は東西100m、南北75mの規模を有していたことがわかる。 この大きなムクの木のある所は少し高くなっており櫓跡と推定できる。 敷地内は中央で二段に分かれており、西側が城主の居館のあった主郭、東側が配下の者達の住居等のあった...
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