北越戊辰戦争において、越後(新潟県内)最大の惨禍・長岡決戦の直前に、河井・岩村両氏による『小千谷談判』が行われたところとして、あまりにも有名なところです。 平成16(2004)年の新潟県中越地震で甚大な被害を受けながら、会見の間も含めてすっかりきれいになりました。 『小千谷談判』を再現したというボイス・ドラマや、このドラマやお寺の経緯を先代住職が解説している(いずれも10年ほど前に収録したそうです)のが流れていましたが、かえって落ち着いて参拝も見学もできると思います。
私はちょうど20年前、会見の間の見学に訪れて、当時現役でおられた先代から、直に解説をいただきました。 今も展示されている、戊辰戦争のときの砲弾とともに、まんまるな球もありました。 「これも実は、本物の砲弾を置いていたのですが、ある時砲丸投げの砲丸にすり替えられていたことが判明したのです。つまり、これはニセモノです」と、にこやかに、ユーモアたっぷりに語る先代。私も含め、一同大爆笑でした。 さすがに今では、ニセ砲弾は展示されていませんよ😅
明日(令和元年6月16日)かな?河井継之助を主人公とした小説『峠』を書いた、司馬遼太郎さんを顕彰する碑の除幕式が執...
Read more船岡山慈眼寺 河井継之助の談判の間
約30分で決裂したとされている(慶応4年5月2日、新暦1868年6月21日)。河井継之助は軍目付の二見虎三郎と家僕の松蔵を伴い、慈眼寺の本堂で岩村精一郎らと対面。河井は長岡藩の武装中立と非戦を主張し、奥羽越列藩同盟への参加猶予を求めたが、岩村はこれを認めず、降伏を強要。岩村の高慢な態度が目立ったため、談判は決裂し、北越戦争の開戦につながったと言われている。戦闘の激化で河井は負傷し、会津へ逃れる途中で命を落とした(8月16日没)。後年、西郷隆盛がこの談判の失敗を悔やんだとされる逸話が残る。この戦いで西郷隆盛の弟吉次郎も討ち死にしている。 慈眼寺は、白鳳時代(7世紀後半)に天武天皇の時代に薩明大徳(からくにのまひとく)によって国家鎮護の道場として...
Read more長岡駅近くでレンタカーを借りて訪れた。隣接する小千谷幼稚園の送り迎え用と共通だろうけど、駐車場も数台分ある。本来は歩いて山門から入るのが表だと思うが、一番東側の駐車場に車を停めてまず司馬遼太郎訪問の記念碑が目に付く。振り返ると盛り土の上に、高さ2m以上あると思われる一枚岩の岩村河井会見記念碑がある。歩を西に進めて、国登録有形文化財でもある山門が特に素晴らしい。船岡観世音を参拝し、本堂に戻って、左の庫裏で300円の拝観料を納めると、岩村河井会見の間へ通して貰える。約15分の解説ナレーションをかけて貰い、撮影OKの展示物を撮影し、訪問ノートに記帳して退去した。長岡駅から車で30分弱だと思うが...
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