鳴滝塾(シ−ボルト)と国外追放の本当の背景について。 少し長くなりますが。 長崎出島に軍医(商館医)として着任してきたシ−ボルト。出身地ドイツの大学で医学・植物学・地理学を学び卒業後は親、祖父も医師であったため、そのまま医師となりました。しかししばらくするとそれでも飽き足らず親戚の紹介でオランダの貿易会社に入ることになり東洋のインドネシア東インド会社に入り、やがて日本国に深い興味を持ち申し出て許可を得て出島のオランダ商館の軍医として来日しました。医療技術の遅れていた日本では当時最先端の技術を持っていたシ−ボルトの出島には許可がなければ誰も入れません。そこで奉行所は商館の外科室での医療行為を特別に許可を出して藩医に教えたり治療を学ばせました。評判がよくなり人々が増えてきたため出島の外の医師の家で治療を行うようになりました。【鎖国中の為、奉行所の大変な許可手続き】この頃には全国にも評判が広がり各地から優秀な各藩の医師や町医者が弟子として選ばれて来ました。オランダ語を始め医療薬草植物鉱物地理歴史風俗又、出版物や世界各国の状況等惜しみなく教えていき、又患者も症状が良くなり、シ−ボルトはお金を受け取らないので人々は野菜果物等置いていきました。いよいよ手狭になってきたのでシ−ボルトは土地を探す事になりました。こうなると奉行所の範囲を超えて徳川幕府の特別許可を得て高台の鳴滝の地(オランダ通詞の山作三郎の別荘地)を購入しました。江戸参府の時にはシ−ボルトに付いて高良斎や【二宮敬作】も同行し日本橋の豪商(薬問屋)の長崎屋に泊まり、江戸往復の間には弟子たちに地理鉱物薬草等、課題を与えて先だって現地に赴かせ調べさせました。シ−ボルトはイギリスから持ってきた【ピアノ】も分解して持ち込み長崎屋で披露して親睦を図り多くの人が訪れました。(多くの土産物ももらい帰りました。) 国外追放になった二つの出来事。一、土生玄碩の三葉葵の御紋服事件。代々眼科医の家で育ちやがて広島藩の藩医となり藩主の姫、教姫の治療実績により幕府に聞こえやがて御殿医(奥医師)となりました。長年の苦労であった散瞳剤(白内障)の治療施術についてシ−ボルトに願ったところシ−ボルトはベラドンナ薬を使って瞳孔を拡散させる働きが有り、頼んで少量を分けてもらい効果を示したがすぐに無くなり再度分与を願ったがシ−ボルトに断られてしまった。度重なる願い出にシ−ボルトは交換条件に玄碩の持っていた紋服袴との交換条件を示しました。(シ−ボルトとしては商行為のひとつか)驚いた玄碩はその場では回答せず数日経って回答(了解)しました。『同胞万民への思いもあったのか。』又、日本にも同じ薬草が有ることを教えられ(愛知県尾張のハシリドコロ)取り寄せてその効果を確認した。日々奥医師として重きをなして業務に励んでいたが、突然大勢の警護役人がなだれ込んできた。何事かと抵抗したが有無を言わさず捕縛され、牢に入れられ厳しい取り調べを受け事情が分かってきた。将軍の御紋服を譲渡したことによる厳罪を受けて、お家取り崩しとなった。息子の玄昌も罪を被されたが後日赦されて幕府待医となった。 一、高橋景保の日本地図譲渡事件。(伊能忠敬の師匠である幕府天文方、高橋至時の子)。幕府の書物奉行、天文方筆頭であった景保は親の代から地理天文学を学びやがて幕府の重席となっていた。シ−ボルトの動きを良しとしない目付奉行に情報が入った。探検家の間宮林蔵(将軍御庭番)宛てにシ−ボルトから荷物が届きその中に高橋景保宛の手紙も入っていた、同じ仕事仲間であったがライバルであったため関わりたくないため開封せずにそのまま役人に渡した。そこには伊能忠敬の『大日本沿海興地全図』の複製図をもらい受ける文章が書いてあった。景保邸の大捜査を始め、長崎出島の商館も大掛かりで取り調べに入った。国禁の地図を始め御紋服等が出てきた。景保は入獄、獄死し死体は塩蔵されその上斬首された。なぜ景保は地図を渡したのか。天文方筆頭の景保は、実はロシアの南下を非常に憂いシ−ボルトが持っていたロシア艦長の書いた本『世界同行記』が是非欲しくて交換条件としたのだった。私利私欲ではなく深い思慮で行動したのだが奉行役人の知るレベルでは無かった。この件でシ−ボルトは国外退去となった。 拝 国外追放30年後許されて再び日本に異母兄弟のハインリヒ、アレクサンダーを連れて帰って来ました。妻、滝や娘イネを育ててくれた二宮敬作には深い感謝を述べ、奉行所、役人や商家を回り親睦を図りやがて幕府顧問に迎えられました。医療の貢献に尽くし対外国との折衝相談を受けました。しかしやがて年老いた国の親の面倒を看る為に兄弟を残して帰っていきました。『決して国外追放の悪人では無かった』 【二宮敬作】イネも住んだ住居跡。愛媛県西予市宇和町卯之町3-234 記念公園 愛媛県八幡浜市磯崎1551 【熊谷美術館】シ−ボルトの日本で一番古い(ピアノ)イギリス製が有ります。山口県萩市今魚店町47 イネが江戸築地に産院を開いた(後日福沢諭吉の推薦で皇室に出入りし出産立ち会いで下賜を賜る)跡地が残る。(シ−ボルト像)中央区日本橋築地7-19-1あか...
Read moreQuiet, small museum on a tiny quaint street. You can park in the lot right next to Seibold toad for free. It is a nice was to get a break from the heat. Costs 150 yen a person. Most everything is in Japanese but it is an interesting part of...
Read more1796年、フランスではナポレオン・ボナパルトとジョゼフィーヌが結婚し、イタリア遠征など革命戦争の真っ只中。そんな時代、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツ、ヴュルツブルクに生を受けました。幼くして父を亡くした彼は伯父に育てられながらも、大学を卒業して内科、外科などの博士となりましたが、自然科学を含めた幅広い志向する分野への興味から、知己を得て1823年にオランダ商館ドクターとして、27歳の時に長崎出島にやって来ました。縁あり日本での妻、滝との間に、1827年には稲をもうけました。最初の帰国時に持ち出し禁制の日本地図などが発見され、一度は追放の身となりましたが、後に許され再度来日。通算でその滞在は10年余になります。彼が日本の医学、博物学に寄与した功績は大きく、結果的に我が国の近代化に貢献しました。記念館はオランダにあるシーボルトの旧宅を再現されています。彼の愛用品をはじめ、数多くの文物が展示されています。日曜日でしたが、来館者はあまりいない様子。駐車場がないので、電車で来た方がいいです。電停から歩いてすぐです。大通りから細い道へと曲がります。近くに実際のシーボルト邸跡があります。重文指定の...
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