平安時代後期、妻籠と馬籠辺りは遠山庄と呼ばれ、北の戦沢で小木曽庄に接していた。 いつから妻籠と呼ばれるようになったかは分かっていないが、「妻籠」の地名は、妻は棲で先端、籠は込めるということから、何らかの先端部に人を込めたところ、と解釈されている。「妻籠」の地名の初出は永享4年(1432年)の美濃国守護土岐持益宛足利義教御教書で、室町幕府が美濃守護に命じて、妻籠兵庫助に伊勢神宮の七間御厨材木を出させているものである。このころの木曽は、木曽町福島から北の大吉祖庄の地頭・藤原氏(後の木曽氏)が、上松町から南木曽町三留野までの小木曽庄の地頭・真壁氏を応永30年(1423年)滅ぼして木曽全域を支配するようになっていた。
妻籠の南にある馬籠は遠山馬籠なる人物がいたことが分かっていることから、馬籠は恵那郡岩村に本拠を置く遠山氏が地頭として支配していたことは確実である。これらから美濃守護の命を奉じている妻籠兵庫助なる人物は、遠山氏の一族の者と考えるのが妥当であろう。
昭和60年夏に実施された妻籠宿本陣跡地発掘調査の際には、14世紀から15世紀にかけての遺構や遺物が多く確認されていることから、妻籠兵庫助の時代には妻籠城は既に存在し、その南の現在の妻籠宿の場所には、城を維持するための集落があったと考えられる。
つまり、妻籠とは、遠山氏が小木曽庄の真壁氏や木曽氏と対峙するために兵力として民を移住させて詰め込んだ場所として「ツマゴメ」と呼ばれ、ツマゴメが転訛してツマゴやマゴメと呼ばれるようになり、そこに作った城をツマゴ城と呼ぶようになったと思われる。
妻籠城は北を木曽川、西を支流の蘭川に囲まれた要害であるが、木曽氏の勢いを遠山氏は止められなかったようだ。 応仁の乱(1467年〜1477年)において、木曽家の当主・木曽家豊は、伊那に本拠を置く小笠原定基と共に美濃守護・土岐成頼を攻めている。 伊那の小笠原定基が木曽氏と連携して美濃を攻めるには清内路街道を使うしかない。清内路街道は伊那と木曽路を結ぶ街道で、妻籠で交わっている。つまりこの時、既に妻籠城は木曽氏の手にあったことを示している。
しかしその後、木曽氏の分家である三留野氏と野路里氏の争いが続き、「木曽旧記録」(1851年)によれば飛騨の三木勢の侵攻もあり、木曽氏の侵攻の勢いが衰微して守成を余儀なくされてゆく。
木曽氏は一族を妻籠城に置き、清内路街道には配下の原伝左衛門を配して木曽から伊那に至る街道を抑えていたが、「下条記」(1704〜1711年)によれば、永正年中 (1504〜1520年)小笠原氏の分流である下条家の調略により原伝左衛門が降ったことで、清内路街道は小笠原氏の手に落ちた。
それでも、妻籠は死守していたようで、「妻籠大屋氏系図」によれば、三留野家範の息子・範定が妻籠に配されて妻籠氏を称したのは延徳元年(1489年)以前だと考えられている。
さらにその後、天文2年(1533年)に京都醍醐寺理性院の厳助僧正が清内路街道を通って飯田の文永寺まで行った時の記録「信州下向記」によれば、一行13人と妻籠で一泊した僧正は、木曽一家の妻籠の人や馬に荷物を運んでもらいながら広瀬まで行き、広瀬でさらに5人が運搬に従事してくれたので山中一里ほど続く悪路の峠道をなんとか通り抜け、そこでまた広瀬の者と交代した者が飯田まで送ってくれたとある。つまり、一旦は下条氏に奪われた清内路街道を木曽氏が取り戻していたと考えられる。
再び東濃を攻めるチャンスを狙っていた木曽氏であるが、戦国時代になって北から武田信玄が侵攻してくる。時の当主・木曽義康は、小笠原、諏訪、村上と協力して武田信玄に対抗し、何度も武田軍の侵攻を防いだが、同盟諸将が順番に滅ぼされてゆき、ついに天文24年(1555年)武田信玄に降伏した。 武田信玄は木曽氏を御親類衆として遇したが、木曽での権利を全て奪い、妻籠城には阿部宗貞なる部将を在陣させた。
不満を募らせていた木曽義昌は、長篠の戦いで武田軍が大敗すると長年敵対していた遠山氏を介して織田に寝返った。織田の武田攻略に際し、木曽義昌は妻籠城をいち早く攻略した。これにより、織田軍は伊那路と木曽路から侵攻することができ、四方から攻撃されることになった武田軍は侵攻から僅か一か月ほどで滅亡する。木曽義昌はこの功により本領の木曽のほか安曇・筑摩の二郡を加増され10万石の大名となり、居城を深志城(現松本城)に移したが、本能寺の変により信長が討たれると信州は大いに乱れる。最終的に徳川家康により平定され、木曽氏は家康に臣従して木曽を取り戻すも、加増された安曇・筑摩の統治を吝嗇な家康が認めるはずもなく、家康の元を離れて羽柴秀吉につく。
そして家康と秀吉の争いである小牧長久手の戦いが始まると、再び妻籠城が焦点となってくる。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際、木曽義昌は家臣の山村良勝に三百騎をつけて籠らしめた。そこへ家康の命を奉じた飯田の菅沼定利、高遠の保科正直、諏訪の諏訪頼忠が七千余騎を率いて清内路を越えて攻めてきた。家康は小牧で膠着状態になった戦況を、秀吉のいる犬山城を背後から衝くことによって打開しようとしたのだ。ここに、記録として残る初めての妻籠城の戦いが始まる。
徳川勢は蘭川を挟んで妻籠城の西に対峙する愛宕山を本陣とした。山村良勝の子孫・山村良景が記した「木曽考」(1706年)によれば、妻籠城に籠城した良勝であったが、妻籠の北端、戦沢に近い渡島の住人が徳川方に着いたため、味方である三留野との連絡を断たれて孤立し、水、兵糧、鉄砲の玉薬が早々に不足した。そこで竹中小左衛門という者が夜陰に紛れて木曽川に降り、牛ヶ淵を泳いで対岸の島田に着き、河原を伝って三留野にたどり着いた。 三留野に着いた竹中は、そこの者30人ばかりに玉薬を髪に結わえさせ、再び木曽川を渡って妻籠城中に帰った。 徳川勢は、孤城となった妻籠城には兵糧や水は言うに及ばず、玉薬もなくなったころだと油断していたが、柴山の峰から狼煙が上がり、夜には篝火が焚かれるのを見て不審に思った。これは木曽氏の一族で入道していた与川村古典庵の僧侶(名前不詳)が与川村民を率いて、昼は紙旗や狼煙を上げ、夜は篝火を焚いて援軍が来たように見せかけたものである。そこに、妻籠城から大量の鉄砲が撃たれた。徳川勢はこれを、秀吉方の部将である美濃兼山城の森忠政が大軍を率いて救援にきたため、先に徳川方についた渡島の者たちが再び寝返ったと勘違いした。さらに、四方を囲まれてしまったと錯覚して、あわてて妻籠城の囲みを解いて退却しはじめた。 これをみた山村良勝は、城兵を先廻りさせて蘭(あららぎ)の山路に伏せ、城門を開けて徳川勢を追尾し、徳川勢に大勝した。この戦いの場所は、出土遺物から広瀬の捻木沢周辺ではないかと考えられている。山村が伏兵を置いた蘭は妻籠の東にあり、広瀬はそのさらに東になる。蘭に配した伏兵が広瀬まで追撃したのであろう。徳川勢の本陣のある妻籠の西、愛宕山方面については記載がないため不明だが、蘭川を渡河して追撃するほどの余力はなかったのであろう。
こうして、妻籠城は一時は城の周囲の者たちが徳川方について孤城となったが、よく持ちこたえて、大軍を撃ち破ったのであった。 なお、妻籠城の戦いの際、木曾義昌が妻籠城に配した者たちは木曽氏の直臣ではなく、木曽氏を支配下に置いていた武田時代の部将であった。守将の山村良勝は僅か21歳。木曾義昌は、妻籠城を捨て石としていたのかもしれない。
妻籠城の戦いで徳川勢を破った木曽氏であったが、木曽氏は秀吉の命令で再び徳川傘下の大名となった。家康の関東移封にも同行し、山村良勝ら妻籠城に籠城して徳川勢を破った者たちもそれに従った。文禄4年(1595年)、木曾義昌が移封先の下総阿知戸で没し、嫡男義利が当主となったが、義利は生来粗暴で身内までも簡単に殺すような者だったため、慶長5年(1600年)、家康によって改易された。山村良勝らは木曽に帰ることもできず、阿知戸に留まっていたが、時は折しも関ヶ原合戦の時。会津の上杉討伐に向かった家康は、西に向かう交通の要衝である木曽を抑えるため、不遇をかこっていた山村たちを召集し、木曽攻略を指示した。狭量な家康が自分に敵対した山村たちに木曽攻略を指示したのは、やはり当時はそれだけ家康も追い詰められていたからであろう。
山村たちは一族郎党と共に木曽に向かうと、瞬く間に木曽を平定した。あとは東山道を西上する徳川秀忠軍を迎えるべく、妻籠城を整備していたが、秀忠軍は真田昌幸によって上田城で足止めされ、妻籠城にたどり着いた時に家康から捷報を聞くことになった。
山村たちの木曽攻略は徒労に終わったが、家康は珍しく彼らの働きを評価して木曽攻略に従事した主だった者を旗本に取り立て、山村良勝には木曽の代官と福島関所の関守の役を与えた。妻籠宿の本陣問屋を務めた島崎氏、脇本陣問屋を務めた林氏は、山村良勝と共に妻籠城...
Read moreNice view! So if you don’t mind a little extra uphill hike, you got rewarded with some nice views (and a bench to...
Read moreThe view is nice but there are no visible ruins. When we were there the place looked as of it had been...
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