奥の細道 第16の段 「武隈の松」 陸奥の3松の1つ「武隈の松」。ちなみにあと2つは「阿古耶の松」「姉歯の松」。奥の細道では、枕歌の地らしく、徒然草の「いづくにもあれ しばし旅立ちたるこそ めさむる心ちすれ」の引用で始まります。 続き、能因法師の「武隈の松はこのたび跡もなし千年をへてや我はきつ覧」さらに、芭蕉門下で当地出身の商人、挙白が餞別として詠まれました「武隈の松みせ申せ遅桜」(手前訳:桜よ今年の花は師匠(芭蕉)にはご覧頂けないでしょうが、せめて武隈の松を案内して下さい) そして芭蕉が「桜より松は二木三月越」を詠みます。 この段だけでこの句を解釈するのは難しいですね。微分式から積分式を求める位の難題です。解釈の候補は以下の通りです。 桜→①挙白の詠んだ桜②前段の実方を示唆する桜③江戸(上野・谷中)で書いた桜 松は二木→①武隈の松の幹が二つに分かれていること(能因法師:武隈の松は二木を都人いかがと問はばみきとこたへむ)②阿古耶の松に続き2つめの松であること 少々野暮ですが、手前訳は「上野・谷中の桜を思い起こして早3ヶ月、”阿古耶の松”、”武隈の松”所縁の地を訪ねることができました」 能因法師の歌にあるように、由緒ある武隈の松は切られて橋にされてしまいますが、新たに若松を植え、継承されています。ちなみに、能因法師が2回目に見た松と、芭蕉が見た松、そして目の前にある松は同じ松ではありません。奥の細道では「名取川の橋杭にせられたること」と史実に記載の無い内容(名取川、橋杭)を明記しています。手前の考察するところ前段(笠島)の”阿古耶の松”の伝説と関連付けたと思われます。これならば訪問の順番を意図的に変更したことも説明できます。 あれ?そういえば、伊達家を裏切って政宗の父輝宗の命を奪ったのは二本松義継でした・・・。 一が足らなくて、「木」が「本」になっていませんね。
本来は「笠島」の段で書くべき事でしたが、芸術の評価について整理しておきます。芸術の評価は現段階では実験や数式で表すことができません。芸術の評価に対する人の分類はおおよそ下記の①~④に分けられるものと考えます。芸術の善し悪しは②の方が重要とされているようです。 ①自らが制作者で、その表現や技法の凄さを理解している人 ②その分野について、よく調べ通じている人 ③見識者や、世間の評価、に乗る人 ④自分の嗜好で判断する人、もしくは興味を示さない人 もう一つの要素として、表現がその分野の範疇であるかどうかです。 例えば誰もが知っている芭蕉の句「古池や 蛙とびこむ 水の音」も (1)蛙は鳴き声を歌うもので、邪道です。 (2)あえて蛙が水に入る映像を描写した画期的な表現です。 どちらも筋が通った話ですが、この判断も②の方が主張して指示されるのが一般のようです。特に声の大きい人や、実績や組織のある人意見が尊重されるようですが、ネットの台頭で天人の如く振る舞った新聞に五衰が始まったように、芸術の解釈も大きく形を変えるかもしれません。 実方がこの地に来る大本のきっかけは、雨の中,濡れるのも構わず、桜を眺め続け歌を詠んだことです。この行為は上記の③、④に分類される方は理解が難しく、①、②に所属する一部の人のみが理解できる話ですね。同感するかどうかは分かれるところですが、少なくとも西行や芭蕉は強く共鳴したようです。文学は難しいですね。太宰治の「走れメロス」などは冒頭の一行で先を読む気が全く起きず、この作家とは相容れないと感じましたが・・・。 奥の細道第13の段「安積山・信夫の里」から始まった藤原実方の起点になった桜の話に関連してですが、日本人は桜が好きですね。(遺伝子論や唯識論を考慮しなければ)人間は認識の無いものを発想することがありませんので、人生のどこかで桜に好意のある事象がすり込まれているのでしょう。 一方手前は冬を越えて真っ先に花を付ける「梅華」の方が好きです。あえて清きを誇らず、香りを誇らず、そして万障は梅の木の中で起きていることを考えますと、降雪の中、いつまでも眺めてい...
Read more19.武隈の松
【芭蕉自筆影印】 ①おくの細道紀行文 岩沼宿 武隈の松尓こ楚 目覚る心地ハ春禮 根盤土際よ利二木尓わ可連て む可しの姿うしな者す登 志らる 先 能因法師おもひ出 往昔むつの可み尓て下里し人 此木越伐て 名取川の橋杭尓せら禮多る事なと あ連者尓や (能因法師が)松ハ此多ひ跡も那しとハよみ堂利 代々 あるハきり あるひハ植次な登せし登聞尓 今将(イマハタいままた)千歳乃可多ちとゝのひて めて多き松の氣しきになん侍し 堂希くま能松みせ申勢遲櫻と 拳白と云ものゝ 餞別志多り希禮者 ( 岩沼宿 武隈の松にこそ、目覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、むかしの姿うしなはずと、しらる。先、能因法師おもひ出。往昔むつのかみにて下りし人、此木を伐て、名取川の橋杭にせられたる事など、あればにや、(能因法師が)松は此たび跡もなしとはよみたり。代々、あるはきり、あるひは植次などせしと聞に、今将(イマハタいままた)千歳のかたちとゝのひて、めでたき松のけしきになん侍し。たけくまの松みせ申せ遅桜と、挙白と云ものゝ、餞別したりければ、)
櫻より松盤二木を三月越シ (櫻より松は二木を三月越し)
【句碑】 ①二木の松史跡公園 岩沼市二木2-2

櫻より松は二木を三月越し

②岩沼駅前
桜より松波二木を三月越 (桜より松は二木を三月越)

③竹駒神社 岩沼市稲荷町1-1

佐くらより松盤二木を三月越し

【芭蕉像】 ①岩沼駅

《施設・句碑拡大写真はgoogle...
Read more【岩沼市指定文化財】
二木の松(武隈の松)
この松は陸奥の歌枕のなかでもその詠歌の多いことでは屈指の名木である。 千余年前、陸奥の国司として着任した藤原元良(善)が植え、以後能因・西行をはじめ多くの歌人に詠まれるようになった。 元禄2年5月4日(1689年現在の6月20日)、この松を訪れた松尾芭蕉は、「武隈の松こそめ覚る心地はすれ。………めでたき松のけしきになん侍らし。」と「おくのほそ道」に記して「桜より松は二木を三月コシ」の句で結び、曽良の「随行日記」には、「岩沼入口ノ左ノ方ニ、竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。ソノ辺、侍やしき也。」とある。 この松は植え継がれて7代目といわれ、文久2年(1862年)に植えられたものと伝えられている。 昭和44年(1969年)5月29日、市の文化財に指定された。 平成元年3月...
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