三枚橋城廃城後の沼津は、代官支配となったが、安永6年(1777年)水野忠友が2万石で沼津に城地を与えられ、ここに沼津水野藩が誕生する。
水野家は、享保10年(1725年)忠恒が江戸城内で刃傷事件を起こして領地が没収されたが、徳川家康の生母の家柄であったため、大叔父である忠穀(ただよし)によって名跡相続が許され7千石が与えられた。その子忠友は出世し、沼津の地に城地を与えられて大名に復帰した彼は、田沼意次と手を結び、側用人から若年寄、老中となり、3万石に加増された。
2代目の忠成(ただあきら)も老中、老中首座となり、さらに2万石加増された。忠成の政治は、田沼と似て賄賂が幅を利かせているとして「水の出てもとの田沼となりにけり」と批判されたが、11代将軍家斉のもとで化政文化の花が開いた時期でもある。
忠成の後は、忠義・忠武・忠良(ただなが)・忠寛・忠誠(ただのぶ)と続き、忠良の時はペリー来航の頃で、領地に伊豆の白浜・稲取が含まれていたので海防警備に明け暮れている。忠誠は再び老中になっているが、第2次長州征伐の途次で病死し、次の忠敬(ただのり)の時に明治維新になり、上総国菊間(千葉県市原市)に移封され、沼津は徳川宗家を継いだ徳川家達の府中藩の支配下に入ることになる。
沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。城の南北は現在の野村證券から静岡銀行沼津支店あたりで、大手門はうなぎの浜作本店あたりに造られ、本丸は中央公園辺りにあった。かつて三枚橋城の城内であった上土町や川廓町には、東海道が通じていた。ただ、三枚橋城と比べ規模は小さい(1/2)。
明治になって城は沼津兵学校の校舎に使用されたが、間もなく廃校となり、明治5年(1872年)に城は県で競売に付し解体され、同22年(1889年)、東海道線開通に伴い、南北に縦貫道路が設けられた。その後、沼津は2回の大火に遭い、城の堀は埋められ、その面影を偲...
Read more2025年6月29日訪問。以下は案内文の内容です。
沼津城本丸跡 この中央公園は、三枚橋城と沼津城の本丸跡に位置しています。 三枚橋城は、天正七年(一五七九)、武田信玄の子勝頼が後北条氏の戸倉城に対抗して築城したものといい、関ヶ原合戦後の慶長六年(一六〇一) には大久保治右衛門忠佐(ただすけ)が城主になりました。しかし、同十八年(一六一三)の忠佐の死後世継ぎがなかったため大久保家は断絶となり、翌十九年、三枚橋城は廃城となりました。 以後一六〇余年の間当地に城はありませんでしたが、安永六年(一七七七)、後に老中となる水野忠友が沼津に城地を与えられ沼津城を築城しました。この沼津城は三枚橋城の北半分を利用して造られましたが、規模は三枚橋城と比べ小さなものでした。 慶応四年(一八六八)水野氏の菊間(現 千葉県市原市)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われましたが、明治四年(一八七ー)の兵学校廃止後払い下げられ、姿を消しました。 この石理の周囲の石は、昭和四十八年に上土町の静岡相互銀行(現...
Read more沼津城(三枚橋城)跡は、静岡県沼津市にある歴史的な史跡です。戦国時代に武田勝頼が築いたとされる三枚橋城と、江戸時代に水野氏が築いた沼津城の二つの城郭がありました。現在は、本丸跡や石垣などが一部復元されています123。沼津の街並みや狩野川の風景を眺められる場所でもあります3。
私はこの史跡を訪れたことがありますが、とても感動しました。歴史好きな方にはおすすめです。
受信したメッセージ. 沼津城(三枚橋城)跡は、静岡県沼津市にある歴史的な史跡です。戦国時代に武田勝頼が築いたとされる三枚橋城と、江戸時代に水野氏が築いた沼津城の二つの城郭がありました。現在は、本丸跡や石垣などが一部復元されています 。沼津の街並みや狩野川の風景を眺められる場所でもあります。...
Read more