那須七騎史跡
2022年5月6日来訪。
那須七騎のひとつである大田原氏の居城。大田原氏は戦国時代における、13代当主資清の復讐劇が興味深い一族である。
大田原氏は、元は武蔵国阿保を本領とし、その後康清の代に下野那須の大俵に移り住んだことにより、「大俵」を名乗ったとされ、当時分裂していた那須氏の上那須家に仕えた。 12代胤清の代に、上那須家が家督争いの末に断絶。事の発端は、上那須氏15代当主資親が子に恵まれず、白河結城氏から養嗣子として資永を迎え入れたが、資親の晩年に資久が生まれたことによる。那須資親が臨終の際に、資久に家督を継がせられないのが残念だと言い遺し、それを聞いた大俵胤清とその子資清が、大関宗増、金丸義政らと謀り、さらに伊王野氏、蘆野氏等の上那須衆を取り込んで、福原城の那須資永を攻めた。しかし、資永が隙を見て、資久を居城の山田城から連れ出して殺害し、資永も自害した事により、1514年、上那須家は主を失ったのである。 その結果、大俵胤清、大関宗増ら上那須衆は、下那須家の那須資房の子、政資を上那須家当主に迎え入れ、事実上那須氏は統一された。 なお、「寛政重修諸家譜」によると、大俵胤清は、1514年中に死去したとされ、家督は子の資清が継いだ。
資清は、智勇に優れた武将で、「資」の字を偏諱として与えられる程、那須資房に気に入られていたようでしたが、その存在を危険視していたのは、大俵氏と並ぶ上那須氏の重臣大関宗増でした。そして1518年、大関宗増は、福原資澄と謀り、資清に謀反の疑いがあると那須資房に讒言し、大俵資清を失脚させました。
国を追われた資清は、僧籍の兄、麒道を頼り、越前の曹洞宗総本山永平寺に潜んだとも、朝倉氏を頼ったとも言われている。 その後24年間、那須に戻るまで、資清がどのように過ごしていたのかは、詳しくはわからないが、その間、高増、綱清等の子をもうけている。
1542年、資清は突如那須に復帰すると、仇敵大関宗増の嫡男、増次を急襲して敗死させ、大関家に高増を養嗣子として送り込んで大関家を掌握、さらに福原家にも資孝を養嗣子として送り込み、那須七騎の内、三家を支配し、那須家中最大の有力者となった。 さらに、那須資房の子、政資に、自分の娘を娶らせ、主家とのつながりも深めた。 仇敵の家を乗っ取る辺りは、資清が相当両家を恨んでいたということでしょうか。事の発端となった大関宗増は、この時まだ存命であり、高増の養子縁組も渋々受け入れたことでしょう。なお宗増は、その2年後、無念の内に1544年に死去している。 1545年、資清は、居城を水口城から大田原城に移し、姓を「大俵」から「大田原」に改め、更に兄麒道を招いて菩提寺となる光真寺を開基し、保護した。
余談であるが、この一連の騒動の背景としては、永正の乱の影響を受けて、那須政資と、子の高資が争い続けていたことが関係していると思料される。 永正の乱は、1510年、関東管領として辣腕を振るった上杉顕定が越後国内で、上杉定実を擁する長尾為景と戦って討ち死にした事により、その跡継として、古河公方足利政氏の弟から上杉顕定の養嗣子に入った上杉顕実と、それ以前に上杉顕定の又従兄弟として養子に入っていた上杉憲房が、山内上杉氏の家督と、関東管領の地位を争った戦いで、古河公方足利政氏は、弟顕実を支援していた。一方、上杉憲房は、足利政氏の子、高基を味方につけた事により、古河公方家でも政氏、高基父子の間で争いが生じ、更に政氏の次男、義明が小弓公方として独立してしまう、越後から関東一円に広がった一連の争乱である。 那須氏に影響を与えたのは、古河公方の内紛で、政氏から偏諱を受けた那須政資と、高基から偏諱を受けた那須高資が親子で争った。 その那須高資の大きな後ろ盾となっていたのが大関宗増であり、高資派の大関氏を排除するのに、那須政資が大俵資清の力を必要としたのでは無いだろうか? 1539年には、政資が佐竹氏、宇都宮氏らの援軍を得て、高資の烏山城を攻めており、また政資と高資が和睦に至るのは1544年頃であることから、大俵資清が那須に復帰した1542年は、政資と高資の係争の最中であったと思われる。 放逐されて兵力も無いはずの資清が、大関増次を奇襲して敗死させ、家中の争乱を招いた資清が何のお咎めも無く、当主那須政資と資清の娘との婚姻に至るという筋書きも、それなら納得できそうなものである。
1549年、那須高資は喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱を討ち取り、版図を塩谷郡の一部まで拡大させたが、1551年、宇都宮氏家臣芳賀高定の調略により、那須七騎の千本資俊に殺害された。 那須政資と大田原資清の娘との間に生まれた那須資胤が、那須氏の当主を継ぐが、元々資胤は異母兄である那須高資と対立して逐電し、千本資俊に匿われたという。 高資が死去した後、当主の資胤や、大田原資清、大関高増らは、下手人の千本資俊を一時は放逐したものの、資胤により許され、その後千本資胤は却って重用された。 この辺りの背景も、これまでの那須高資・大関宗増 対 那須政資・大田原氏ら上那須衆の構図を考えれば、行きつくべくして行きついた結果なのでしょう。 もっともこの後、大田原資清の死後、跡を継いだ綱清、大関高増らの影響力が拡大すると、その影響力の排除を画策した当主資胤と対立し、周辺勢力を巻き込んで泥沼の戦いを繰り広げ、その後和睦に至るものの、今度は千本資俊を殺害してその遺領を分け合う等、勢力拡大に邁進した。
1590年、豊臣秀吉が小田原征伐が勃発すると、綱清の跡を継いだ晴清は、去就を明らかにせず参陣しなかった主家那須氏を尻目に、ちゃっかりと参陣して恭順を誓ったことで、改易された那須氏の所領が大田原氏に継承された。 最後までまとまりが無い、那須七騎らしい顛末である。
現在残っている城跡は公園になっているものの、土塁や堀等、しっかりと遺構は確認できる。各曲輪も高低差があり、区画が分かれている為、城の形が分かりやすい。城域の東側を流れる蛇尾川の河川敷との標高差がかなりあり、防御に適している地形であることがよくわかる。 従来の大俵氏の居城水口館は大田原城の北方にあるが、居館であり、防御に適していなかったと思われ、大関宗増一派を退けたばかりの資清も、まず地歩を固める為に、要害であるこの地に城を築いたのでしょう。
長くなってしまいましたが、24年越しに復讐を果たし、那須に復帰した大田...
Read more大田原城跡(おおたわらじょうあと) ・大田原城は大田原資清によって築かれた城です。1545年(天文14年)の築城以来、1871年(明治4年)の廃藩置県にいたるまでの326年間、大田原氏の居城でした。 ・本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外、北と西の曲輪(くるわ)・馬場・作事場等がある複郭式の平山城(ひらやまじろ)でした。 ・徳川家康は特にこの地を重視し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い前、上杉景勝(かげかつ)の挙兵の際にはその備えとして急ぎ城の修理を命じ、さらに3代将軍家光は、常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への備えとしました。文政8年(1825)には火災によって焼失しましたが、同9年新たに修造されました。 ・戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍につき、大田原城は会津攻めの拠点となりました。そのため、慶応4年(1868)会津軍の攻撃をうけましたが、火薬庫の爆発により落城はまぬがれました。1873年、廃城令により廃城。 ・城址は1961年(昭和36年)12月8日に大田原市の史跡に指定され、現在は龍城公園(城山公園とも)として利用されている。土塁には桜やツツジが植えられ、花見の名所として大田原市民に親しまれている。
~大田原資清について~ 那須家は、応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。 応永年間:(1394年から1428年までの期間を指す。室町幕府、将軍は足利義満、足利義持、足利義量。)
上那須四代の那須資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。 上那須家の家老・大田原資清は、遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永(養子)を福原城に追い詰め、ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永(養子)の家臣で田川時法が、「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久(実子)の首が入っていた。こうして、上那須家は唐突に断絶した。 「追い詰められた資永(養子)の命により、家臣の田川が田中城に忍び込んで、資久様(実子)を誘拐した。 「この上は、下那須の那須資房様に従い、指示を仰ぐべし。」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。 大田原資清が、統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が、主君・那須資房(下那須家当主)に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は大田原資清を攻めた。 大田原資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。 24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、大関宗増と福原資安は驚いた。 「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」 「やぁご両所、お久しゅう。実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。」 不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた大田原資清は、大関宗増の嫡子・増次を殺すと、大田原資清は、自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、福原資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の養子に押し込んだ。さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。 この大田原資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。 ちなみにこの大関高増が、大田原城の東にある...
Read more城主の大田原氏は、もともと那須氏の部下でしたが、小田原征伐や関ヶ原の功績によって近世大名に成り上がったもののようです。特に関ヶ原の際の対上杉(会津)戦では、黒羽城の大関氏と共に最重要防衛ラインを担っています。 当時は城主の住居と政庁がありましたが、現在は市民の憩いの場として利用されています。土塁の上には散歩道が整備されていて、犬の散歩をしている人などがいました。当時は築地塀が張り巡らされていたところですが、現在は桜の木で囲われています。春は、さぞ綺麗なことでしょう。 この城のおもしろいところは、蛇尾川の河川敷と一体になっているところです。今は埋め立てられてしまっていますが、川から城内に水堀が引き入れられていたので、水運も利用していたのではないでしょうか。 大田原藩は一万二千石ということで小さめの藩ですが、城はかなり立派でした。奥州街道をすぐ西に抱えた交通の要衝で、人の往来も多く、蛇尾川の水運も利用でき、財政的には潤っていたのかもしれません。 すぐ東隣にある黒羽藩は一万八千石と大田原藩より大きいのですが、両藩のライバル関係がどのような感じだったのか、お互いに気にしていなかったのか。少...
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