吉備津神社とは 岡山県岡山市に鎮座し、 大吉備津彦大神を主祭神とする 山陽道屈指の大社です。 吾国唯一の様式にして日本建築の 傑作、「吉備津造り」の勇壮な社殿。 釜の鳴る音で吉凶を占う 鳴釜の神事、また桃太郎の モデルとして親しまれています。
本遺産の中の 吉備津神社 地域の歴史的魅力や特色を通じて、 日本の文化・伝統を語るストーリーを 文化庁が認定する「日本遺産」。 構成文化財件の内、件が 当神社のものが指定を受けています。
当社には、あの桃太郎のお話のもととも云われる温羅退治のお話が伝わっています。 吉備津彦の温羅退治は、昔からのこの地に伝わる神話で、桃太郎の童話は、この神話がもとになったとも言われています。 吉備津神社には矢立神事や鳴釡神事、吉備津彦の凱旋を豪勢なお膳で祝ったと言われる春と秋の七十五膳据神事などが祭事として今に伝わっています。
昔むかし、吉備のくに 阿曽の里は、近くまで海であったそうな。 瀬戸内の海風に吹かれて人々は ほっこりのんびり、 幸せにくらしておった。 ある日、百済の国の王子「温羅」という、 おそろしい者がやってきた。 ひげがぼうぼう、目は虎や狼のように輝き、 身の丈は四メートルもある乱暴者。 足守川の西の新山に城をつくり、 そばの岩屋に住み着いておった。
城の下を通りかかる船があれば、 ことごとくこれを襲い、 積み荷を奪い取るのは朝飯前。
女や子供、弱い人間と見れば、 ことごとく連れ去り、 城へ閉じこめていた。
あらがう人々を次々に釜ゆで にしたりと、やりたい放題。
里人たちは、時の朝廷に 「助けてくだせえ。」とうったえた。 そしてキビツヒコが遣わされた。
「皆、案ずるではない。」 キビツヒコはそう言って 吉備の中山に陣を据えた。 そしてその西には石の楯を築いた。
かたや、温羅も待ちかまえ、 ついに、たたかいがはじまった。 キビツヒコは岩に矢を置き、 念ずると、びゅう、と放った。 温羅も矢を放つ。ひょう。 ばちん。 どちらの矢もはげしく、 空中で火花を散らして当たり、 お互いの陣の間に落ちてしまって、 相手にとどかない。
なかなか勝負がつかない。 「そうじゃ。」 キビツヒコは一計を案じ、 二本の矢を同時に放った。 びゅ、びゅう。 温羅はそれとも知らず、 それまでどおり一本の矢を放つ。 ひょうぅ。 ばちん。 これまでと同じく、 お互いの矢が一本ずつ当たり、 地上に落ちる。 しかし、キビツヒコの放ったもう一本の矢は、 見事、温羅の目に刺さった。 温羅の目からはたくさんの血が流れ出し、 ひと筋の川となって流れ、 下流の浜を真っ赤に染めた。
「これはかなわん。」 温羅はキジにすがたをかえ、 逃げることにした。
「まてっ。」 それを見たキビツヒコは、 タカとなり、追いかけた。
「こりゃいかん。」 追いつかれると思った温羅は、 今度は鯉となって血吸川に飛び 込んだ。
ざぶん。 すかさずキビツヒコも鵜にすがたを変え、 川に飛び込んで追いかける。 「もうだめだ。」 逃げても逃げても 追いかけてくるキビツヒコに、 温羅はとうとうあきらめた。 「観念せい。」 キビツヒコはついに温羅をくわえて捕まえ、 その首をはねた。
「うおーん、うおーん」 しかし、あろうことかその首は 何年もほえ続け、人々をなやませた。 キビツヒコは家来のイヌカイタケルに 命じて、犬にこの首を喰わせようとしたが、 それでもまだ、首はほえ続けた。
ある夜のこと、キビツヒコの夢に 温羅があらわれ、こう言った。 「私の妻、阿曽媛に御竈殿の火を炊かせよ。 釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴りひびき、 わざわいが訪れるなら、 荒々しく鳴るだろう。」 それから、御竈殿では毎年、 その年が良い年かどうかを 占うことになったという。
キビツヒコは、吉備の中山のふもとに かやぶきの宮を建て、 二百八十一歳の長寿をまっとうした。 その脇には艮御崎となって、 温羅も封じ込められておるんじゃ。 こうして、阿曽の里は平和を取り戻し、 里人たちは元のように幸せに暮らした。 今、その吉備の中山のふもとには、 吉備津神社が建てられ、 キビツヒコがまつられておる。
桃太郎伝説 【雉子】
第一章 留玉臣(とめたまおみ) 1 鳥取部ととりべとは、その名の通り、弓矢をもって鳥を狩ることを生業とした者たちのことである。彼らはまた、鳥を馴らす技にも長け、意のままに操ることができるがゆえに鳥飼部とりかいべとも呼ばれた。 そしてそんな鳥取部の中でも、特に優れた者である長に与えられた称号な――それが留玉臣とめたまおみである。、た
「我が夫とのが神去られたゆえ、私も後を追うぞ」 「……は?」 狩りに出るのと同じぐらいの気安さで言った母に、沙鳥さとりはもちろん、ともに呼ばれた犬飼武いぬかいたけるも開いた口が塞がらなかった。 「は、とはなんだ。私は留玉臣だ。主人あるじをひとりで逝かせるつもりはないぞ」 「いえ……留玉臣、そのことではなく……」 めったに動じることのない犬飼武でさえ、なかなか二の句が継げないでいる。沙鳥にいたっては息をするのもやっとだ。 母の主人といえば、今から三代前の大王である黒田の大王だ。若くして皇子にその座を譲られ、自らは隠居されていたのだが、つい先ごろ身罷られた。諡おくりなを大日本根子彦太瓊尊おおやまとねこひこふとにのみことという。いくら殉死が禁じられるようになったとはいえ、主人大事の母のこと、それなりの覚悟はしていた。 それよりもふたりを驚かせたのは「夫」のひと言である。というのも、母はいままで娘である沙鳥にすら夫の名を明かそうとしなかったのだ。 「夫……ということは、では……」 言葉を切って、犬飼武は沙鳥を見やる。 「そうだ。沙鳥、そなたの父は我が主人、黒田の大王よ」 そう言って、母はしてやったりといった笑みを浮かべた。
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鳥取部は、貴人あてびとに献上する鳥とは別に自らの鳥を持っている。 齢十五にして留玉臣となった沙鳥が持つ鳥は二羽。珍しい白色の兄鷂このり・白銀しろがねと、もともとは母である先代が使っていた隼の黒鉄くろがねだ。そしてそのうち白銀は、わけあって放し飼いにしているため、今は沙鳥の鳥小屋 とや には黒鉄しかいない。 「黒鉄……いったいどこから持ってきたんだ?」 ため息まじりに、沙鳥は左腕に据えた隼に訊いた。空いた右手で、鳥小屋で見つけた銅鏡を掲げてみせるが、もちろん返事はない。 きれいに磨かれ、紐で釣られた銅鏡は、くるりくるりと回りながら、そっぽを向き続ける隼と、ゆるく下美豆羅したみずらに髪を結った男装おとこのなりの娘とを交互に映し出す。 「いつもは飛びつくくせに……」 時おり鏡が弾く日の光に目を細めながら、沙鳥はぼやいた。黒鉄はなぜか光るものに執着をみせるふしがある。昔から、どこからか鏡や珠を持ってきては母に叱られていたものだった。 ――黒鉄、またお前か。 怒りつつもなかば諦めたような声が偲ばれる。 母が世を去って季節が二度巡った。もう二年なのか、まだ二年なのか。めまぐるしく変わってゆく情勢に揉まれていた沙鳥には、前者のほうがしっくりくるかもしれない。 そもそも留玉臣とは、黒田の大王が、沙鳥の母を側近とねりに召し上げるときに与えた称号なであった。まだ大王が皇子だったころ、献上された隼をいたく気に入り、隼を馴らした母を召し上げた。そのうえ自らが大王となったのを機に留玉臣の名を与え、鳥取部の長に据えてしまった。もとより弓取りにも長けていた母だったからこそ、反対していた臣たちを押し切ることができたといえる。 そのような経緯があって、本来大王に仕えるべき鳥取部であったが、留玉臣は黒田の大王がその座を降りた後も、主人を変えることなく仕え続けることが許された。 そして大王の死後、一の皇子である軽かるの大王も、その皇子の春日の大王もすでになく、絶えるかに思われた留玉臣の名は、黒田の大王の三の皇子である五十狭芹彦いさせりひこによって、先代せんの娘である沙鳥に与えられた。 折りしも磯城しきの大王となった御間城入彦みまきいりひこが、自ら率いた近衛を優遇したため、多くの部民とものをたちは葛城の皇子たちのもとへと集っていた。すると大王は地方の平定と称して主だった皇子たちを四道よつのみちへと使わした。五十狭芹彦もまたしかり。 かくして沙鳥は住み慣れた葛城の地を離れ、遠く吉備の地にやってくることとなったのである。 西海にちのみち行きが決まってのち、沙鳥が好んで身につけるようになったのは合わせのある上衣うわぎぬと細身の袴で、俗に言う男装だった。生前、沙鳥の母が好んで着ていたのを真似たのだ。 巫女でもない女が男装をすることを快く思わない者は多く、陰口を叩く者も少なくはなかったが、沙鳥は母の男装姿が好きだった。 誰よりも弓に長け、誰よりも自在に鳥を操った。母は沙鳥の誇りだった。その母の真似をすれば、自分も強くなれるような気がしたのだ。 突如腕に伝わった緊張に、沙鳥は我に返った。腕に据えたままの黒鉄を見ると、額の愁毛うれいのけが逆立っている。声をかけようとして、沙鳥は後ろの気配に気づいた。すぐさま投げの体勢かたちに入る。 「行け」 掛け声とともに腕を振り、空に向かって黒鉄を放り投げた。 炎天の野に力強い羽音が響く。勢いづいた黒鉄は、輪を描きながらあっというまに燕の大きさになるまで上がって行った。野に生きる鳥はもちろん、高く飛ぶよう鍛えられた鳥たちでさえ、黒鉄ほどの高みまで上がれない。上がらせてしまえば安全だった。 ほっと息をついたのもつかの間、後ろから少し嗄がれた声がかかる。 「お見事。さすが無駄がない」 沙鳥は舌打ちしたいのをこらえながら声の主を振り返った。 ...
Read moreIt is a large and beautiful shrine listed as a national heritage site due to its unique architecture. It is devoted to Kibitsu-hiko-no-mikoto (吉備津彦命), who is a legendary Prince whose kami is common in the areas of Okayama and Hiroshima. The shrine itself has an impressive main building which was reconstructed in recent history, but i felt that that the smaller shrines situated around were more compelling. The main shrine was of course beautiful but the others were more authentic. The place was full of workers and monks (priests? I don't know the correct verbiage for a shrine). The shrine is famous for its long wooden corridors. Worship sites are easily accessible and not crowded even on a weekend. The place to buy omamori is open until 18h. It is clearly well maintained. Accessible by foot 1 km from Kibitsu station which is only 3 stops from Okayama station!!! I thank them for their work. The shrine cat is...
Read moreA Good sort of getaway from the crowd of the city. The shrine is magnificent in both atmosphere and architecture. The fact that they constantly played traditional japanese instruments ( i assume ), help you immerse yourself more. The nature surrounding the shrine also boosted the beauty of the shrine. The shrine is quite huge, so prepare to explore and walk (also hike) alot. In summer around July you can see peonies blooming. The peony garden it self span quite wide and absolutely pretty with a long and quite steep staircases that got surrounded on both side by the peonies.
Theres also another garden close by from the shrine that can be either accessed from the main car lot of the shrine. Also the shrine in built on a hill so prepare to hike. The shrine is just 3 train stop from okayama station so quite close but you need to walk for about 10-15 minutes from the kibitsu station. The price to...
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