【城探究】 ◉城跡 鷲城 📍栃木県小山市
祇園城・中久喜城と並び、小山氏の主要な城の1つであり、小山義政の乱での激戦地となった「鷲城」を探究しました。
14時10分に開始して鷲城跡周辺を探究しました。 探究には長袖・長ズボンにブーツタイプのドレッシングシューズと軍手装備がお勧めです。
🏯鷲城
☆分類・構造 平山城
思川や谷地・湿地帯などの要害に囲まれた標高40m位の台地にあり、東西約400m、南北約600m、中城と外城と2つの郭からなり当時としては広大な城郭となっています。
☆築🏯主 小山政光・義政?
☆築🏯年 応安5年(1372年)?
☆主な城主 小山氏
☆主な改修者 なし
☆廃城年 不詳
☆沿革 鷲城の築🏯年数は正確には不詳となっていますが応安5年(1372年)に小山義政が武蔵国太田荘の鷲宮を修築して、鷲城と名付けた事から、これを築🏯年とする説もあります。 この頃、下野の名門宇都宮氏との間で下野守護職とその所領を巡って対立関係にありました。
康暦2年(1380年)5月16日、小山義政と宇都宮基綱が下野裳原(茂原)にて戦を起こし小山氏側は230名以上が討死、宇都宮氏側は80余人と少なかったのですが当主基綱をはじめ、弟や有力家臣が討死しました。 辛くも小山義政が勝利を収めた形となりましたがこの事態を重く見た鎌倉公方(鎌倉府の長官)足利氏満は6月1日に関東八ケ国や奥州の武将に小山義政討伐を命じました。 祇園城から始まり、大聖寺、小山義政屋敷西木戸口と続き8月29日は鷲城で合戦となり9月19日に降伏。 🍙第一次小山義政の乱
小山義政は足利氏満に謝罪する事なく、祇園城より強固な鷲城を修復し反抗を示した為、氏満は追討軍を派遣し永徳元年(1381年)6月には両軍が激突し元沢河原、中河原、粟宮口合戦へと続き8月12日には鷲城の東戸張口を攻撃、18日には外城及び新城(長福城?)が陥落し、10月15日には鷲城中心地への攻撃が開始となりました。 11月16日には鷲城の外城の城壁を破り内城に侵入し、12月6日には堀を埋める攻撃が行われ、8日に降伏となりました。 🍙第二次小山義政の乱
☆鷲神社 中城の一番高い場所にあり、鷲城の名の由来となった神社です。 下野国小山に移住して来た小山政光が武蔵国太田荘(埼玉県鷲宮町)にある鷲宮神社を勧請創建したとされています。
◉感想/ルート 鷲城へのルートは鷲神社石鳥居から入るルートと小山総合公園側から入るルートがありますが今回は鷲神社石鳥居からのルートとなります。 鷲神社石鳥居付近には「史跡...
Read more戦国時代を更に遡ること、室町時代後期 下野国守護...
Read more久しぶりの鷲神社参拝です。 しかも、早朝に訪ねるなど初のこと… 太陽が昇って間もない小一時間の探索🧐です。
車は最寄りのコンビニに置かせてもらいました。(鷲神社には専用の駐車場が無いのです)
参道入口の説明板と地図を読みます。日本史と地理の課外自習活動の開始!そんな気分です。
「1381年」…「小山義政の乱」この地での攻防が、先日訪ねた長福城の遺構と重なってきました… 追い詰められて粟野方面へ敗走する武者や従者たち… 同じ日本人同士が戦う時代が以降続くことを、我らは習いましたが… ひとり、人気のまったくない この「中城」跡にたつとそんな歴史の重なりに哀しくさえなってきます。 さて、 本殿に礼拝、辺りを見渡せば、草むらにはドクダミの花が露に濡れているばかりでした。 ...
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