※「新治郡衙跡」は、国指定史跡で、建物が北の正倉群、西の庁屋や厩家、東と南の倉庫群、計52棟あった。西暦817年に、このうち東の13倉、穀9,990石が焼失したことが、平安時代の歴史書「日本紀略」や「類聚国史」に記載されている。真っ黒に炭化したモミの出土で穀倉の位置が特定された。不動倉は全て西向きで、西4棟、中央5棟、東4棟が規則正しく一定間隔で並んでいた。他の建物はほとんど南向き。
※東日本大震災で貴重な県内外の多くの資料を保存していた新治汲古館が被災したため、2011年10月に文化庁や茨城大学等のべ80人以上のご協力で桜川市教育委員会に一括寄託され、新治汲古館の継承や歴史の道「鎌倉街道と小栗道」について、真壁伝承館歴史資料館で企画展が開催された。
※常陸国風土記 都に一番近い新治郡として、常陸国風土記に最初に出てくる。古代には、湖沼地帯の多い県南ではなく、県西から来訪しやすかった。下野の国分寺や薬師寺とも近い。 常陸国風土記に書かれた県境の山波「波太の岡」(端の岡つまり、はじっこの岡か?)は、小栗城から東に連なる山波と推測される。
※古事記では、倭武天皇(ヤマトタケルノミコト)が、東北の蝦夷平定後に、新治の地を通った時に、新たな井戸を掘らせ、手を洗った際、袖を水にひたしたことから、ひたちの国名となったとも伝わる。その後、甲斐の国の酒折宮(甲府市に現存)で「新治筑波を過ぎて、幾夜か寝つる?」の問いかけに、家臣が答えられないので、かがり火担当の老人が「かがなべて夜には9夜、日には10日を」と返した連歌が有名です。今では、酒折宮は連歌発祥の地...
Read more大化の改新(645)による律令制下における常陸国新治郡の郡衙(役所)跡。昭和16年からの調査によって12ヘクタールの広大な敷地に51棟の建物が確認され、国道50号線を挟んで北方約2~300m先には新治廃寺跡があります。古事記(712)には日本武尊の詠んだ日本初の連歌「新治 筑波を過ぎて...
Read moreナビの表示に釣られて行ってみた。畑の中に標柱と看板があるだけで、遺構らしきものはなんにもない💦🙍 看板の説明によると今から1200年ほど前、この辺りに郡役所があり、その規模は12haに亘ったというので、我が家より断然広かったのは間違いない。今の景色からは全く想像もつかないが、当時は大きな集落だったのだろう。多くの人々💇で賑わいを見せた遥か昔に思い...
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