戦国時代、北関東の超「クセ者」武将である佐野昌綱の居城であり、彼は上杉謙信を裏切っては北条氏につくことを繰り返し、謙信に10度もこの唐沢山城に攻め寄せられるという凄まじい経歴を持っています。こういう味のある名脇役は大好きです(笑)。
Wikiには「上杉氏と北条氏の勢力の境にあって、家名を絶やさないように臨機応変に対応した」とありますが私は違うと思います。この男は謙信とは肌合いが合わない、というかハッキリ嫌いだった筈です(笑)。 何故なら北条側に帰順するときは、基本的に交戦に及ぶ事なく素直に城を開いて従っていますが、謙信に対しては「永禄7年(1564年)の戦い」を始めとして死力を尽くして闘い、三の丸、二の丸を奪われて本丸のみになっても抵抗をやめなかったほどなのです。要するに激しい戦いは上杉側に限られています。
他にも昌綱の謙信への感情をうかがわせる物があって、それは彼の墓です。自身は天正2年に亡くなっているのですが、何故か没年として謙信の一周忌の年月日である天正7年3月13日が刻まれています。遺言でこうしたらしいのですが形の上だけでも「イケすかない謙信よりも長生きしてやったぞ!」という事なんですかね (笑)。
そんなに嫌われているなら放っておけばいいようなものですが、そうもいかない事情があったのです。本拠地である新潟県上越市から関東に最短距離で出てくるために、謙信は三国街道(現国道17号線)を使っており、その出口は前橋(当時は厩橋)になります。三国街道は冬は雪に閉ざされてしまうので、謙信は厩橋城で冬を越すなど重要拠点になっていたのですが、ここから古河公方(関東統治の為の室町幕府出先機関長官)のいる下総国古河までの街道の途中に佐野氏の領地が存在していたのです。
古河は当時、北の鎌倉と呼ばれたほど栄えていた都市で、また上杉氏の権威は公方の補佐役である「関東管領」である事に拠っていたので、敵である北条氏陣営の武将に街道を塞がれ、連絡を絶たれるのは看過出来る行為ではありませんでした。そのため謙信の側もウンザリしたでしょうが、裏切る度に制圧せざるを得なかったのです。
癇癪持ちで不義理を嫌う謙信が、よくもまあ何度も降伏を許して昌綱の命を奪わなかったものですが、これには理由があります。佐野氏は古くからの名族で地元との地縁血縁が濃く、特に周辺の有力者達とは近しい姻戚関係にあったのです。そのため関東で上杉氏に協力していた有力武将である佐竹氏や宇都宮氏が、昌綱の助命嘆願にまわり、関東経営に於いてこれからも助力が必要な謙信は、彼らの意見を無視する事が出来ませんでした。
さて佐野昌綱の紹介はこれぐらいにして、城の方を見ていきましょう。この城のアイデンティティでもある本丸南西の8メートルを超える高さの石垣は、重量感も素晴らしく圧倒的な迫力があります。関東には元々高石垣をつくる技術は無かったので、豊臣秀吉による小田原征伐(1590年)以降に、西日本の技法を導入して築かれたと考えられています。まあ、つまり謙信は、この石垣は見ていませんね(笑)。
そして関ヶ原の戦い(1600年)以降になると石垣の技術革新があって、応力が集中して崩れやすい石垣のコーナー部分に特別に細長い石を交互に積んで、左右の壁面の連結を強化する「算木積み」が導入されるのですが、唐沢山城石垣はまだ未発達な状態なので1590〜1600年の10年の間に造られたものと推定出来ます。
現地の石垣のコーナー部分を観察すると、そこだけ分離し浮いていて、他の壁面の石と噛み合っておらず重みで乗っているだけです。成る程コレは危険ですわ(写真参照)・・今ならこんな未熟な崩落しやすい方法で、高さ10m近い石垣を復元する事など許されないでしょう。地震があったら速やかに石垣から離れることをオススメします。
そうは言っても、先年の東北大震災を始めとする過去の数々の大地震に石垣は耐えてきた訳で、技術的にはともかく築かれた地盤が元々強固なのかもしれません。このあたりは強敵相手にも図太く抵抗し、簡単には屈することはなかった元城主、佐野昌綱と共通す...
Read more山頂と山麓の広い範囲に遺構があります。ただし、城跡は神社参道と車道建設のため、かなり改変されています。大手口食い違虎口は、駐車場が隣接し過ぎていること、また、通路がアスファルト舗装されているので、虎口の雰囲気がありません。天狗岩は、南側の展望が素晴らしく、遠く都心が望めますので、江戸の大火も十分見えたでしょう。 避来矢山は、南側に三段の曲輪が確認できます。 西城は、建物が建っているので、詳しく見ることが出来ません。四つ目堀は、大手道付近では、埋められ、浅くなっていますが、避来矢山の中段曲輪北端当たりでは、帯曲輪との間で、本来の姿を確認できます。帯曲輪は、北端当たりが車道建設で削られているように感じます。三の丸は、地面がコンクリート舗装されています。ここから見上げる二の丸の切岸は、中々見応えがあります。しかし、南城に向けて通路が、桜の馬場と三つ目堀の様子を分からなくしています。大手道は、本来、二つ目堀当たりを鋭角に折れ曲がって、二の丸に向かいますが、参道建設により直接、南城、南局、本丸に行けるようになっています。二の丸南虎口は、本丸西下帯曲輪と車道でつなげため、大手道との繋がり方が分からなくなっています。二の丸は、南と北の石塁が良好に残っています。しかし、参道を建設するため、北虎口の内枡形を形成していた土塁を壊してしまったのは残念です。本丸は、社殿があるため、北面の石塁と搦手口虎口 を近くで確認できません。本丸からは、南局、南城に向けて参道が建設されているので、遺構が全く分かりません。しかし、二の丸南面、本丸西面の高石垣は、良好に残り、必見です。南城の西面から南面、東面も石垣が良好に残り、一つ目堀を確認できます。本丸東尾根の曲輪群の引局は、改変されていませんが、長門丸は、車道を通すため、無残に東側の土塁が破壊されています。金の丸は、建物が建てられ、北面の切岸が車道建設により破壊されています。杉曲輪は、駐車場建設により、北側の一部が破壊されています。北城も西面切岸を、また、北側にある二重堀切は、中央部分が、車道建設により破壊されています。しかし、東側は、幾分、堀切、土塁、横堀が確認できます。天狗岩西下の上木戸口付近は、本来、鏡岩との間に岩盤があり、行き止まりでしたが、車道建設により破壊されています。残念です。北西の土矢蔵には、石垣が残っています。山麓の御台所には、竪堀、外堀、土...
Read more続・日本百名城、関東七名城のひとつで、国指定史跡の唐沢山城跡に行ってきました。唐沢山山頂に本丸を有し、400年以上前に築かれた貴重な高石垣が見事でした。駐車場に車を停めるとすぐ猫ちゃんが近づいてきました、かなり慣れていて触らせてくれます。くい違い虎口から大炊の井の間にも何匹も人馴れした猫ちゃんがいました。レストハウスにはチュールが売られていました。
本丸周辺では関東平野を一望できるというネット情報で眺めを楽しみにしていましたが、木立が深く眺めを遮っており、期待外れでした。
でも、見るべき遺構はしっかり残っています。今回アップした以降は以下のとおりです。
くい違い虎口(くいちがいこぐち) 北の避来矢(ひらいし)山、南の天狗岩の間にある防備を固めた出入り口です。土塁をくい違いにして直線的に進入できないようにするなどの工夫がされています。
大炊の井(おおいのい) 避来矢山と西城の間にある、口径9m、深さ8m以上の大きな井戸です。築城に際して厳島大明神に祈請したとされています。 山上における水の確保は重要ですが、現在まで涸れることなく豊かな水を蓄えています。
四つ目堀 西城方面と帯曲輪(おびくるわ)以東を分断する大きな堀切で、深さ2間とあります。 現在神橋が架かっていますが、かつては曳橋であったとされています。いざという時に橋を引き払い、通行を遮断することができました。
高石垣 本丸南西の石垣は約40m延び、南局の西側に続きます。高さ8mを越える石垣は、小田原合戦以降、佐野氏が豊臣秀吉と深い関係にあったため、西日本を中心とする技術の導入によって築かれたものと判断されます。関東では極めて貴重なものです。
二の丸 周囲には石塁のような石垣が巡ります。奥御殿直番の詰所があったとされています。現在本丸への通路は直線的にアプローチしていますが、かつては鉤の手に折れていたようです。
三の丸 現在は帯曲輪と二の丸の間を三の丸としています。本城ではおおきな曲輪です。かつては賓客の応接間があったとされています。周囲は高く急な切岸が巡りますが、部分的な石垣等が...
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