When I go there in spring (but not in sakura blooming weeks), the site is practically empty. If you want to cool down, maybe this is a good place for you. You have to take some stairs to get to the site, though. Bencehs are available around the site.
There are some explanation about the place's history in Japanese. Also there is also a parking space, enough for...
Read more2022年9月17日に見学しました。 松森城は、鶴翼の形をしていることから鶴ヶ城と呼ばれることもあります。頂上の平場は本丸跡で、西側の平地が二の丸跡です。 国分氏は、鎌倉御家人の千葉介常胤の5男胤通(たねみち)が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したと言われています。胤通は、平泉征討以前に、鎌倉から下総国国分荘の領地に移住していたため、国分氏を名乗るようになり、国分氏の祖となりました。別に国分氏の名は、宮城郡の国分荘に由来するという説もあります。居城は、始め郷六城、次いで千代城(現在の仙台城・青葉城)、小泉城、松森城と当主の転居によって遷移しました。 南北朝時代に国分氏は、松森城を抑え、居城としました。隣接する岩切城の留守氏と長らく攻防を繰り返します。観応の擾乱(観応2年1351年)の際には、吉良探題に味方し、北朝(尊氏)方の畠山氏・留守氏が籠もる岩切城を攻め、潰滅させました。留守氏の領地のほとんどを奪い取り、一大勢力を築きました。 戦国時代に国分盛顕が松森城に入りましたが、世継ぎが途絶え、伊達家から城代として入っていた伊達盛重が国分氏の当主を継ぐことになります。先祖代々、国分氏に仕えてきた家臣の中に伊達家から当主を迎えることに反対する者が多数おりました。伊達盛重は、15代伊達晴宗の5男で伊達政宗の叔父にあたります。国分氏17代当主となった国分盛重ですが、家臣団をまとめることが出来ず、本家の伊達政宗から追討される寸前まで追い込まれます。盛重は、米沢城の伊達政宗のもとに出向いて謝罪し許されますが、身の危険を感じたためか、慶長元年1596年に常陸国の佐竹氏のもとへ出奔しました。国分氏の所領や家臣団は、伊達政宗直属となります。直属となった家臣団は、以後、国分衆と呼ばれるようになりました。豊臣秀吉の小田原参陣命令においては、国分氏は、大名と認識されず、伊達家の家来とみなされたため、領地没収の対象になりませんでした。犬猿の仲であった国分氏と留守氏ですが、留守氏の後継問題が起きた際に伊達家から盛重の兄である伊達政景(伊達晴宗の3男)が当主に収まったため、敵対関係が解消されています。 佐竹氏のもとに逃げた国分盛重は、佐竹氏の家臣となり、佐竹氏が秋田へ転封された後に横手城で仕えました。 ちなみに現在の国分町の名の由来は、国分氏の領地であったことも関...
Read more松森城は、戦国時代に国分氏が居城したと伝えられている標高70mの山城です。頂上の平場が本丸跡で、西側の平地が二の丸跡と言われ、本丸と二の丸の位置が「鶴翼の陣形」に似ていることから、別名「鶴ケ城」とも呼ばれています。現在は公園として整備されており、小高い丘に設けられたあずまやからは、七北田川をはじめ泉区の街並が一望できます。春はサクラの花が楽しめる場所として、また、夏は森林浴が楽しめる散策場所として地域の...
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