桜の季節が終わり、新緑の時を迎え始めた頃にもう一度出掛けてみました。ピンク、白、紫色など数色の芝桜が護岸壁?にバランス良く植えられていました。 そして、初夏を思わせる陽光が降り注いでいた6月初めに、またまた訪れました。3度目でした。種類が豊富で色彩豊かな紫陽花が右岸ゾーンの道の両側に咲き誇っていました。
新河岸川と柳瀬川の合流地点であり、中洲ゾーンから見て、左岸ゾーン(志木市中宗岡5丁目)には「さくらのこみち」や三日月ゾーンがあり、右岸ゾーン(志木市本町2丁目)には、雑木林と湧水が流れ出ている「こもれびのこみち」があります。そのすぐ近くには、敷島神社と田子山富士塚もあって、見所・楽しみ所が複数揃っていますので、それぞれの興味に応じて出掛ける楽しみもあります。(新河岸川を境に地区が分かれています)
春は花々や、木々が萌黄色から若葉、そして樹木の種類の違いによるグラデーションの美しさを見ることができます。短い期間に緑の色を変えていく、春の息吹に圧倒されます。 この公園のみならず、今年の春は、空気が澄み切っているためでしょう。花も木々の緑もより鮮やかに映り、心が揺さぶられています。
短期間に3回、敷島神社などを含めると、計4回訪れています。過ごし方、楽しみ方が色々有るからでもありますが、「引又」という言葉に引き付けられているように感じられます。子供の頃、大人たちが志木のことを「しきまた」または「ひきまた」と呼んでいたことがあり、そのことがなぜか不思議であり、疑問でもあったのです。今回の訪問で、かつて志木市本町辺りが「引又」と呼ばれていたことを知りました。極めて個人的で些細な経験ですが、数十年来の疑問が解けた納得感があるのです。
では、その引又はどういうところなのだろうと関心を抱いたわけですが、公園の右岸ゾーンに「引又河岸」があり、傍らには、左側に馬頭観音(1769年、明和6年)、中央に聖観音(元禄10年、1697年)、右側に馬頭観音(年代不詳)の三仏が「引又観音堂」に祀られていました。このお堂自体の建立は昭和42年(1967年)のようです。
江戸初期、川越藩主松平信綱が、川越と江戸を結ぶ新河岸川の舟運を開いています。「引又河岸」は、今の志木街道と新河岸川の交点に位置していたため、大いに栄えたとのことです。 ところが、明治末期に発生した大洪水を契機に荒川を初めとして河川の大規模改修が行われています。新河岸川は、大正11年(1922年)から昭和の初期にかけて修理が行われました。この結果、川の水位が下がったことにより、荷船の通行が困難となり、新河岸川の舟運は、昭和6年(1931年)に終わりを迎えています。 一方で、大正3年(1914年)には、現在の東武東上線が開通しており、運搬方法の転換が起こっています。
いろは親水公園は、埼玉県の「水辺空間とことん活用プロジェクト」の一環として整備されているとのことです。舟運の歴史を今に伝えるため、「いろはの渡し」の船を年に数回運行。後々には、中洲ゾーンを船着き場にして、大々的な運航を計画。船頭さんを育ててもいるようです。今年、春のお祭りが行なわれていたならば、その一端を見物できていたのでしょう。
朝霞市を流れる黒目川も埼玉県のプロジェクトに含まれていること、玉川上水から水を引いて野火止用水が作られていたことや、松平家の墓所が、なぜ平林寺にあるのかも知りました。書くと長くなりますので止めておきます。
生まれ育ったところや、その近くの出来事がかなりの年を重ねた今にして知ることができようとは、望外のことでした。 (ウイキペディア、広報しき、ふるさと朝霞の歴史などを参照させていただきました。)
付記 2020年 3/27、4/24、6/5...
Read more●春は桜が満開なので花見をしに来る人がたくさんいます🌸公園近くにあるBakery & Cafe...
Read moreThe very first time I come here I see a boy maybe 11 years old playing IN the water with a cast on his leg. We all know how smelly, dirty, and absolutely bacteria infested the skin gets inside a cast, right? Now I'm absolutely grossed out, but I've come this far with my 2 young kids. Ugh, I let them play for about 20 minutes but then we went home right away to really get clean. Not...
Read more