「んー、またおま系?」
奈良時代における一国一国分寺の政策により建立された、下野国における国分寺跡地であり、国指定史跡です。 発掘調査の結果、金堂や南大門とそれを囲む回廊などの伽藍や、その脇にそびえ立つ七重塔の礎石などが判明しています。
で、現状は芝生の公園として整備されています。
国分寺って全国に60以上あるのですが、正直、整備状況はどこも似たような感じであり、最近は「またおま系(また、お前か)」の印象が拭えません。 律令時代のおける中央集権の弊害なのか、どこも設計図が同じなんでしょうか、画一的で似たような作りばかりなんです。
同時代の廃寺のほうが由緒や人物、建物の配置なども含めてバラエティに富んでおり、訪れた際の楽しみはあるように感じます。 日本100名城のスタンプラリーはそれなりに流行ってますが、国分寺コンプリートを聞かないのは、国分寺はどこも同じような伽藍配置、現在の保存整備状況も似たりよったりで飽きちゃうんじないか、そんな理由かもしれません。
しかし、ほぼ全国どこの国分寺&国分尼寺も国史跡、もしくは特別史跡になってますが、そんなに学術的価値ってあるのでしょうか? 史跡指定の日付を見ると、殆ど(もしかしたら全て?)が大正から戦前にかけて史跡指定されています。 これって、国分寺(と国分尼寺)建築は聖武天皇直々の詔だったから、戦前の皇国史観においてありがたがってただけなのでは?
すみません。特に下野国分寺をディスるつもりは全く無いのですが、いろいろ巡っていると、国分寺全体に対してそんな印...
Read more下野国分寺跡は、奈良時代の741年、聖武天皇の詔によって全国60か所以上に建てられた国立寺院のひとつです。国分寺は、国内の僧侶や尼僧を監督する役割を果たしていました。現在の栃木県に位置し、周辺には古代の文化や宗教の中心地として発展していた証が残されています。
この国分寺には、南大門や中門、金堂、講堂といった主要な建物がありましたが、現在はその建物は残っていません。しかし、発掘調査によってその存在が確認されています。さらに、当時七重塔があったようで、その構造は柱の間隔などから推定されました。残念ながら、この塔は火災により南側へ倒壊したとされています。
また、国分寺の東側には、僧侶ではなく尼僧が暮らし修行を行っていた下野国分尼寺も存在していました。この地域一帯には、栃木県内でも最大級の古墳があり、古代の下野国が文化的にも経済的にも発展していたことが窺えます。
しかし、この国分寺は1000年から1100年頃のどこかで姿を消し、その理由や詳しい経緯ははっきりしていません。
さらに詳しい情報を知りたい方は、ぜひ「風土記の丘資料館」を訪れてみてください。入館は無料で、歴史的な展示や資料を通して、当時の国分寺や古代の下野国の姿...
Read more聖武天皇の大事業の片鱗。
聖武天皇が全国の疫病を鎮める為に建てた寺院の一つであり、コロナ禍の今とも関係があるスポットになります。
国分寺の学術的価値について疑問を呈されている口コミがありますので、古代史を専攻したものから言わせていただきますと、学術的価値は極めて大きいです。
しかし、国分寺は法隆寺や東大寺のように史跡単体としての価値というよりは聖武天皇が天平の疫病大流行を受け、ほぼ平行して全国的な建立事業を行ったという部分にフォーカスが当てられています。 要するに「全国の国分寺・国分尼寺群跡」という無形遺産的な価値こそが国分寺の学術的価値になるのです。
もちろん全国という事で律制国毎に一箇所ずつ国分寺・国分尼寺が置かれたという訳ですが、その所在地すら比定されていない場所も多く、仮に所在地が判明していても荒れ放題の国分寺跡は多いです。
国分寺・国分寺尼跡共に整備状況も良好。今でこそ当時を伺えるものはありませんが、併設された風土記の丘資料館には復元模型などがあり、そちらを事前に訪問してこそ真価があります。天平の人々がどのように疫病と対峙したか思いを馳せるの...
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