「外交」は心理戦とはいえ、家康もなかなかエグいことをしますなぁ。この寺は駿府(静岡市)を守る西の最終関門である山城「丸子城」が正面に聳える位置にあり、片桐且元をはじめとする豊臣側外交団は、自分たちを見下ろす軍事要塞に威圧され交渉の困難さを感じとった事でしょう。
大坂冬の陣・夏の陣の原因となった「方広寺鐘銘事件」の件で、家康に弁明するため豊臣家重臣の片桐且元が、銘文を起草した南禅寺の僧「清韓」を伴って、この寺までやって来たのだそうです。 彼らは「豊臣家の命運は、この弁明一つにかかっている、なんとか誤解を解かねば。」と悲壮な覚悟で来たことは間違いありません。
それなのに、家康に会うどころか駿府は目の前なのに、入れてもらえず要塞が見下ろす誓願寺に留め置かれた時点で、おおよそ友好的とはいいかねますよね(笑)。
家康のエグさはまだ続きます。大阪の淀殿は且元だけでは不足として自らの乳母の大蔵卿局を派遣します。家康はこちらはあっさりと会見に応じ、鐘銘の件は話題にもせず穏やかな態度で扱うのです。 一方で且元には会いもしないで「秀頼が江戸や駿府に参勤」「淀殿を人質として江戸に」「秀頼が大阪から退去」の3条件を突き付けるのでした。
当然、大阪側は混乱します。「家康殿は怒っていないし、こんな無礼で強硬な要求をする訳がない。」且元は裏切り幕府側に取り込まれてしまったのではないか、と大阪側は疑心暗鬼になり内部分裂が始まります。結局、淀殿の信を失った且元は大阪城を出て行かざるを得ませんでした。
こういう狡猾な態度行動が家康人気の出ない理由の一つなんでしょうね。そもそも鐘銘が戦争になるほど「家康を呪う不吉なもの」であるならば、今も方広寺にぶら下がっているハズがありませんし(笑)。
誓願寺内には、片桐且元の慰霊碑が残されています。片桐家の子孫が建てたそうですが、且元にとって不首尾に終わった場に何故つくったのかよくわかりません。もっともコレによって淀殿や秀頼と共に滅びることが避けられたのだから、良かったと言え...
Read more説明書より ーーー 誓願寺...
Read more丸子城本丸から南西の方向へ降りて行くと誓願寺へ出られるようであるが、今回は匠宿の駐車場へ戻り、車で誓願寺へ向かった。途中後をつけてくるような車があり、誓願寺の駐車場まで一緒だった。不安に思いながら車を降りたら、埼玉から来たのですかと声を掛けられた。何でもその方は熊谷出身らしく、私の車が熊谷ナンバーであることから気になったそうである。勿論その方は誓願寺に用事があったのだが、私はその声掛けに地域の温かみを感じた。因みに、境内は落ち着いていて趣がある。広い駐車場とトイレも完備されている。
誓願寺は、建久年間(1190~1199年)に源頼朝の両親追善の為に建立された寺である。寺紋は笹竜胆、境内には笹竜胆の旧(?)鬼瓦が飾ってあった。 また、誓願寺は慶長19年(1614年)、片桐且元が方広寺大仏鐘銘事件で駿府城の家康に申し開きに伺った際、足止めを食らい滞在した寺として知られている。しかし、なぜそれだけの理由で片桐貞昌(且元の甥で、且元の弟貞隆の子)は、この寺に且元夫妻の墓を建てたのかは腑に落ちない。《...
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