3泊4日の西駿河・遠江の旅を始めた。NHK大河ドラマの「どうする家康」の所縁の地巡りがメインであるが、それとは別に今まで訪ね損ねていた幾つかの城跡や史跡も訪ねるつもりだ。まず手始めは「丸子城」である。
「丸子城」と書いて「まりこじょう」と読む。何か名前に惹かれる。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が今川義忠(塩買坂の戦いで落命)と北川殿(盛時の妹)と間に生まれた嫡子龍王丸[たつおうまる](後の氏親)を擁護した丸子館の詰城である。 国道1号線丸子ICを降りて直ぐの所に駿府匠宿[たくみしゅく]の駐車場(無料、観光用駐車場で自由に利用できるようである)があり、そこに車を停めた。ちょっと気が引けたが匠宿には入らず横目で見ながら、その脇道を通って丸子城跡の登山口に急いだ。ここから本丸跡までは入口の案内によると登り35分となっているが健脚なら25分位だろう。大手登城道は整備されていて登り易い。丸子稲荷神社奥宮までは急勾配で辛いが、後はなだらかである。途中「北曲輪」があり、ここが今川氏時代(龍王丸を擁護した頃)の本丸である。現在本丸跡とされているのは信玄が甲相駿三国同盟を破棄し駿河に侵攻以降、信玄・勝頼によって整備拡張された曲輪である。勿論この時の西の敵は家康更には信長である。
因みに、二の曲輪には地元の有志によって作られた展望デッキがあった。心温まるおもてなしのように感じたが「デッキに上がってけがをされても一切の責任を負いません。」の注意書きには興醒めしてしまった。思いやりの気持ちも安心して表出できない、ぎすぎすした世の中を残念に思う。《...
Read more北城は応永年間に今川氏の家臣である斎藤安元によって築城されました。1476年に今川義忠が戦死した後、氏親と小鹿範満の間で家督争いが発生し、氏親が家督を継ぐと、彼は駿河府中の防御強化のために斎藤氏の居城を拡張し、南城を形成しました。氏親は一時的に丸子城に滞在し、後に駿府の今川館へと移りました。 1568年、武田信玄の駿河侵攻時には、山県昌景が丸子城に配置された。1570年に信玄が駿河を制圧し、丸子城には諸賀兵部大輔と関甚五兵衛が在番として置かれ、後に屋代勝永に交代したました。この期間に大規模な増築と改修が行われたそうです。 1581年に高天神城が落城すると、武田方は丸子城を徳川家康に明け渡し、家康は松平備後守を配置、1590年の関東移封により丸子城は廃城となりました。
丸子城には3月下旬の平日に訪問。あいにくの雨で傘を差しながらで、匠宿の施設側から、誓願寺に抜けるルートで見学しました。 土塁、曲輪、竪堀などたくさんの見どころがありますが、特に見どころは三日月堀と本曲輪とニノ曲輪の間の大堀切です。山の斜面をうまく活用した、武田氏の築城術が随所に垣間見...
Read moreコレは城郭ファンなら、山の中で思わず「ニヤッ」としてしまうでしょうね(笑)。だって今川氏の首都たる「駿府」(静岡市)の西の最終関門であり東海道を抑える要衝である丸子城跡に、見紛うことのない武田流丸馬出と三日月堀が存在しているのですから。
何でこんな事になったかと言うと、永禄11年(1568年)から始まった駿河侵攻によって駿府を手中にした武田信玄は、西の掛川城に逃走した今川義元の子息「氏真」とその一党の駿府奪回に備える必要に迫られたからです。
丸子城は大堀切を隔てて構造的に南城と北城に別れていて、今川氏時代は北城の二の丸が本城とされていたようです。本丸を含む南城は武田氏時代に拡大強化された部分で、設計が新しいだけあって前述の丸馬出や食違い虎口など当時最新の防御攻撃施設が盛り込まれています。
丸馬出は本丸中の「馬場曲輪」の立札のある場所から、少し下ったところにあります。そのまま素通りする人も多いですが丸子城最大の見どこ...
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