This is a great place to visit. It's a short bus ride from Shizuoka station and although small, has lots of to see. It's free to walk around the recreations of the houses/rice paddies and 1st floor of the museum, where you get to be "hands on" with the exhibits. You can use stone tools and create a small fire in the demonstration outside. It's a lot of fun! You get a really good view of Mount Fuji from the 3rd floor. You pay for the 2nd floor but it's super cheap and has some great exhibits. They also provide a free audio guide. It was very quiet when we visited and should get more visitors than it does! Great value for money and...
Read more1943年(昭和18年)、住友金属工業プロペラ製作所静岡工場建設時に発見された史跡。同年1月から造成工事が行われ内容としては建設用地は北側となり、水田側から採土して土盛りをするといった工場であったらしい。 6月頃から土器や木製の品々、杭が見つかり、鹿島組の現場請負の方が中田国民学校に預け、考古学に興味のあった鹿島組の大阪支店市長も興味を持った。また、在野の考古学者安本博氏はこれが大発見であることに気付き毎日新聞記者森豊氏に伝える。 記事発表後は東京にいる考古学者、宮内庁、神社庁の方などが駆けつけた。 カメラで撮っていたら憲兵に殴られたという逸話も残っている。 また、この際、復興局が測量を行っている。
さてさて、戦時中であったが、重要性を説いた方がいたおかげで第一次発掘(1943年)が開始された。 採集されたものは葵文庫や駿府城内の県立図書館、および工場敷地に集められ、模造品も作られた。 住友家の当主、住友吉左衛門からの資金の寄付もあった。
余談であるが、当時の住友金属工業は海軍向けの金属プロペラを多く作っていたらしい。近隣(北東)には三菱重工業静岡発動機製作所もあった。
発掘調査は現代の発掘調査のようなものではなく、地表に出てしまった遺物の採集を行う方法であった模様。また森林跡に関しても調査されている。
しかしながら戦時中であり、戦争の激化によって発掘調査は中断された。 安本氏は中国へ。森豊氏も九州へ。 その後、静岡も空襲があり、上記の2工場は壊滅。工場長も戦死している。 遺物は大部分焼失した。 最も多くの収蔵品があった県立図書館では加藤図書館長により水槽に入れて守られた土器もあった。
戦後、登呂遺跡はB-29の爆弾によって出来た水たまりや、森林跡がある状態であった。森林跡に関しては切り株が多数あったがよく燃えた為、燃料にされてしまった。この為、森林跡に関しては戦前の写真から推し量るしかない状態である。(もう少し広範囲に発掘したらまた出てくる可能性はある) 登呂遺跡の西側には旧第一、第二森林跡など「跡」と記載されているのに「旧」がついてるのはこの為であろう(なお、以前はコンクリート製の切り株が置かれていた)
敗戦翌年初夏、森豊氏が先に帰ってきた事あり、登呂遺跡の再発掘の呼びかけを開始。なお、安本氏が帰ってきたのは敗戦翌年秋であった。 戦後の困窮期の中であるのに、資金をかき集め目標金額未達であったが、第二次調査を開始。
この際、遺跡の名称を決める為、「登呂遺跡」か、「駿河富士見が原原始農耕集落遺跡」かで投票が行われ、「登呂遺跡」となる。
1947年7月には再発掘(二次)を開始。なお、毎日新聞に資金難の記事を載せたりした事もあり、メディアの注目を浴びる。ただし保存費の不足で埋没で戻したりしている。 10月には上野の森国立博物館で登呂遺跡展を行う。益々注目を浴びる。
1948年7月には第三次調査が開始。なお、この際の本部は元三菱重工業静岡工場となっている。GHQもブルドーザーを用意しようとしたが福井地震(1948年6月)があり流れた。東京国立博物館で展示が行われた。なお、単一の遺跡に関する展示はここが初。
1949年7月には第四次調査が行われ、ここで弥生式の水田が初めて世に出た。
1950年8月には第五次調査。この年で資金面により一旦取りやめされ、しばらくは発掘は行われない。
その後、復元整備が行われるようになる。 1951年には一号復元住居、1952年には一号復元倉庫(この年に国特別史跡に指定)1955年には静岡考古館が開館、1957年には復元建築を増設と続く。 静岡考古館は1971年に閉館。現在の登呂博物館(103,140...
Read more歴史的な出土品が沢山出て弥生時代研究の確立、貢献した登呂遺跡。 同じ学区で中学生だった時に 体育館改築時に遺跡が出てしまい工期がだいぶおくれた。いつまでも体育館が出来ないなあ、というのを思い出します。とにかくここら辺は掘ればなんか出てくる。こっそり掘って土器発見。こっそり持って帰った。しばらく宝物だったがゴミに見えたようで父に捨てられていた。ちなみに化石も石ころに見えたようですべて捨てられた😅
ところで静岡市民として疑問。 街中でもないこんな立地で駐車場代を取るの...
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