くほんじと読み、創建は室町期で、開基は倉賀野氏。寺林はなく、本堂は南を向いていて、墓地は大きい。南北朝後期の作とされる善光寺三尊像は市重文。イチョウの大木を仰ぎ見ながら墓地に入るとすぐ右側のに、飯盛り女の墓石が寂しげに数基並んでいる。中山道と例幣使街道が交差する倉賀野宿は大いに栄えて、旅籠が30数軒も軒を連ね、飯盛り女も多数いたとか…。改築間もない寺で、山門を入ってすぐ右側に聳えているケヤキの巨樹は珍品。なぜかと言うと、太い幹に大きなタンコブが出来ているから…。山門の入り口には大きな阿吽の仁王様の石像がギョロリと睨め付けている…。🅿️...
Read moreこちらには、倉賀野宿の飯盛女達の墓があります。 中仙道と日光例弊使街道が交わる倉賀野宿は、多くの旅人で賑わい、五十人を越える飯盛女達がいたと言われています。 飯盛女は旅籠の奉公人であることを口実として、幕府の黙認を得ていましたが、実際は体を売るのが勤めでした。 墓を見れば、多くが越後から連れて来られ、二十歳前後で亡くなったようです。 過酷な勤めのために、若くして故郷から遠い土地で亡くなった彼女達の多くは、墓さえも建ててはもらえませんでした。 墓石に名前を刻まれて埋葬されただけでも、幸せな方だった…というのは、あまりにも悲しい...
Read more初めて知ることばかりでした。倉賀野小学校が建てられる前の仮の校舎であったとは全然わかりませんでした。もうひとつ知ったのは、寄進者の名前に大物が隠れていたことでした。大相撲の力士で大関まで昇進した雷電為右衛門、歌舞伎の松本幸四郎や市川団十郎の名前があったというんです。地図では全然わからない意外な事実を目の当たりにしました。鐘楼は最近落成されて、現在に至っています。ただ通りすぎるだけで鐘をつく瞬間も鐘の音がしたとき...
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