波照間島にある唯一の城(グスク)。 城は北東方向に細長く伸びる連郭式の形状を取っている。 いつ築城されたかは分っていないが、城跡からは15世紀から16世紀の中国の青磁器片が出土していることから、15世紀には存在していたと推測されている。 15世紀頃といえば、波照間島出身の英雄・オヤケアカハチが乱を起こしたのが1500年。しかし、アカハチが挙兵したのは石垣島であり、その前から石垣島の大浜辺りを治めていたことから、アカハチが築城したとは思えない。 既にアカハチが波照間にいた時は存在していたのだろう。
波照間島が初めて史書に出てくるのは、朝鮮の史書「李朝実録」だ。そこには、1477年、朝鮮済州島民が海上で遭難し、与那国島の人々に救出された後、西表、波照間、新城、黒島、多良間、伊良部、宮古という島伝いに送られ、沖縄本島での滞在を経て、九州、朝鮮へと送り返された様子が記されている。 波照間島は、「捕月老麻伊是麼」として「其の地は平衍にして山はなく、みな沙石の地なり。周囲は所乃島(西表島)に比して稚小なり」としている。
アカハチの乱の時、島を統治していたのは明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどん)であるが、彼はアカハチに同調しなかったため、アカハチの配下により殺されている。しかし、アカハチの乱後には、アカハチに与さなかったという功績で、三人の息子(赤真屋、古真屋、遠戸)は琉球王朝に賞されている。 明宇底獅子嘉殿はアカハチが乱を起こすと最初に同盟を結ぶ使者が送られ、断られたら殺すよう命じられたことから、アカハチにとっても恐るべき相手だったのだろう。
城は外周道路から入った所にあり、以前は外周道路に小さな案内板があったが、最近は無くなっていた。 2018年頃まではそれなりに整備されていたが、今は放...
Read moreWhat the hell people? It's history. It's not meant to be brand new and perfect just for your convenience. You EXPLORE history to find what it...
Read more2022.03.15 島一周道路から少し入ったところにある。城は島の北部で海から少し離れた小高い丘の上に築かれている。琉球石灰岩でできている島なので、石垣や階段も琉球石灰岩が用いられている。15世紀には存在したらしく、相当古いお城だ。西表島が見える位置なので、監視にも用いられたのだろうか⁈ また海沿いにも集落があったのだろうか⁈ 妄想は楽しい。 遺構自体は一度整備をしてから年月が経った感じで荒れかけている。また石灰岩なので草履で行くことはお勧めしない。景色も西表島は見えるが...
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