20250726今日は急に休みになったので、秋川渓谷の上流にある「神戸岩」まで避暑に行く事にしました! 5:30起きで6:30にレオパレスを出発して、ひたすら下道で走ること約90分で「神戸岩駐車場」に到着しました! 途中の秋川渓谷までは混んでたのですが、駐車場は貸し切り状態でした! 嬉しいことに無料駐車場で、10台分白線が引いてありました! 駐車場には、公衆トイレも併設されていて、「神戸岩」も見えています! トイレで用を足してから、車で靴を履き替えて「神戸岩」を目指します! 何て涼しいんでしょう! ここの所、外気温が35℃↑の猛暑日が続き、職場はボイラーが焚かれているので45℃↑なので、同じ東京都とは思えません💦 とにかく、気持ちの良い所です! 「神戸岩」で沢歩きを楽しんだ後、次は「阿伎留神社」に向かいます! 拝殿や本殿などは、とても立派な由緒ある神社の様ですが、その他の社は朽ちるに任せている感じで少々残念な感じでした! 参拝を済ませ、社務所に伺うと「御朱印対応はしていません!」との張り紙が・・・・・💦 これまた残念でした!
阿伎留神社(あきるじんじゃ):東京都あきる野市五日市1081に鎮座 御祭神:大物主神、味耜高彦根神、建夷鳥神、天児屋根命 御由緒:阿伎留神社は延喜式神名帳に記載された多摩郡八社の筆頭の古社だそうです! 阿伎留は秋留・畦切とも書くが、いずれも「あきる」と読むのだとか! 創建年代は不詳ですが、社伝によれば崇神天皇7年(B.C.91)武蔵国造・土師連男塩が初代の神主となったとの事です! 古くから朝廷の崇敬篤く、全国でも七十数社しかない勲位を授けられた神社の一つなのだとか! 武将の崇敬も篤く、藤原秀郷の戦勝祈願や源頼朝・足利尊氏・後北条氏による社領寄進が伝えられ、徳川家康も朱印地10...
Read more2024.11 延喜式神名帳 武蔵国多摩郡八座の筆頭に載る著名の古社。 本殿右に神輿等を納めてある倉があり、そちらの彫刻が見応えあります。 【御祭神】 大物主神(おおものぬしのかみ) 味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ) 建夷鳥神(たけひなとりかみ) 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 【由緒】 社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。また現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
『日本三代実録』元慶8年(884年)7月15日条に、正五位下勲六等畔切神に従四位下を授けた旨が記され、以後時代につれて定時の奉幣加階が行われたという。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳には武蔵国多磨郡に「阿伎留神社」と記載され、式内社に列している。 鎌倉時代以後は武将の崇敬も篤く、源頼朝・足利尊氏・後北条氏からそれぞれ神領が寄進された。 徳川家康は、江戸入府の翌年天正19年(1591年)11月に、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で10石を寄せた。それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が残されている。 江戸時代には神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、触下(ふれした)は秋川流域から小河内にいたり28人。6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、阿伎留社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われた。 明治に入り、明治6年(1873年)12月には近代社格制度において郷社に列格し、のち明治40年(1907年)5月神饌幣帛料供進神社に指定された。戦後昭和29年(1954...
Read more多磨郡式内社8座の1座の阿伎留神社。
資料によると、 社名は「阿伎留」「阿伎瑠」「秋留」「畔切」などとも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祀られた神社とする説もある。また現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祀ったことに始まるとも考えられている。
天慶3年(940年)鎮守府将軍の藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したことから、中世以降「春日大明神」と称された。また鎮座地により「松原大明神」と称し、通称は「松原さま」といわれた。 とあります。
御祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)、味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、建夷鳥神(たけひなとりかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。 『新編武蔵風土記稿』では味耜高彦根神のみを挙げており、味耜高彦根神が元来の祭神とする説がある。
ご参考として、 味耜高彦根神は大和国葛城の鴨氏が祀っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説がある。神名の「スキ」は鋤のことで、鋤を...
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