ワタシの世代は「東村山」と聞くと志村けん氏の出身地であり、自動的にドリフ版「東村山音頭」を思い出してしまう訳ですが(笑)、有名な割には産業や歴史が知られていない東村山市の実態を探るべくやってまいりました。
余談ですが、東村山市の近現代史を語るに欠かせない人物となった志村けん氏は、没後に市議会より名誉市民を授与され、同時に東村山駅前に銅像が設置されています(写真参照)。にこやかな顔で代表ギャグの「アイ〜ン」のポーズを決めた姿が面白くて氏らしく印象的です。
歴史館ですが規模は小さいものの、展示品は厳選され説明も分かりやすくて、内装も洗練されていました。 地方博物館にありがちな、漫然とガラスケースに並べただけの展示とは一線を画しています。
展示品を見て感じたのは、東村山は歴史的大事件の「中継ポイント」だったという事ですね。日蓮上人が佐渡島に流される際には市内の久米川宿に宿泊したり、新田義貞が倒幕の兵を挙げた時は鎌倉に向かう途中の同じく久米川で激しい戦闘になったり、といった具合です。
なぜなら古代から東村山は、主要な街道が通る「交通の要衝」だったからです。奈良平安時代には長野・栃木方面から武蔵国国府所在地「府中」までを結ぶ、古代官道「東山道武蔵路」が通り、それは幅が12mもあり両端に排水用の溝も存在する立派なものでした。
朝廷が衰え武士の時代になると、今度は「いざ、鎌倉!」に備え、東山道武蔵路に並行する形で鎌倉街道上ッ道が整備されます。その道を通って倒幕の新田義貞軍が進撃したのは皮肉ですが(笑)。
何でわざわざ官道と並行して鎌倉道を作ったのか不思議に思う人もいるかもしれません。 朝廷の作った古代官道は、どこでも非常に特徴的な傾向がありまして、目的地までの地形や高低差を無視して、ひたすら直線で設営するのです。
お手本にしてきた中国の官道がそうだったので、朝廷は道は直線にするのが「文明的」と思っていたのかもしれません(笑)。 そのため山を削ったり低湿地を埋め立てたりと施工も大変だったうえ、維持管理にもとんでもない手間がかかりました。そんな訳で朝廷が衰えてしまうと結局維持出来ず、寂れていきます。より地形に順応し、実用的な道として開発されたのが鎌倉道という事ですね。
ちなみに東村山市には、ドリフ版東村山音頭にある「東村山〜丁目」という住所は存在しません。時々、交番で聞かれて困る...
Read moreHigashi murayama has its old history than higashi Yamatoshi, i think. The amazing thing i saw there was a like a boat, that was wordless. I like the seat and puzzle play and people are...
Read more立派な資料館です。この辺の歴史や遺産が分かりやすく展示されていて驚きました。縄文土器の展示もあります。東村山市は、古代の「東山道」、中世の「鎌倉街道」を軸に特徴ある歴史があり、これらを反映した文化財が残されています。ふるさと歴史館は文化財保護や歴史資料の収集を進め、東村山の歴史に関わる展示を開催しています。また、窓口では埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の照会も行なっています。 鉄道:西武鉄道新宿線・国分寺線・西武園線「東村山駅」西口から徒歩約8分 バス:東村山駅西口よりグリーンバス諏訪町循環に乗り、「ふるさと歴史館」停留所下車 西武バス「東村山駅西口」停留所より徒歩約8分 グリーンバス「東村山駅東口」停留所より徒歩約9分 グリーンバス「社会福祉センター」より徒歩3分 入館無料でこれだけの規...
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