太宰治と森鴎外のお墓がある。順番的には後者が先たが、知名度に寄与しているのは前者。
個人的には三鷹に20年暮らし、縁あって弘前が好きで何度も訪れているが、太宰には一ミリも興味が無く、玉川上水の入水場所は横を何度となく通っているが正確な場所を未だ知らず、跨線橋も結局一回しか渡らなかった。
そんな人間でも、全国から?ファンが足を運ぶ6月19日の桜桃忌は名前を知っており、また、墓石の隙間にサクランボウが詰め込まれる様は、三鷹の季節の風物詩であり、こう言っては何だが、珍景である。その季節はアジサイも美しい。
また、禅林寺ならびに八幡大神社は、玉川上水あたりまでの短冊状の広大な土地の地主である。明暦の大火後に開発された際、幕府の与えた所有権がそのまま残っている。
その土地は当時は勿論、明治大正までただの田畑で、それが今では大小マンションが乱雑に立ち並ぶものの、周囲は玉川上水を中心とした道筋がそのまま残っており、神田連雀町に由来を持つ下連雀という町名を横に、想像力というか妄想を豊かにして足を運ぶと、江戸時代の面影が感じられるお寺である。
なお、お寺自体は東京では珍しい黄檗宗の造りだが、近代的で昔の面影という物は無い。あと建築物的には、お隣の八幡大神社の銅屋根が見事で、ここまで来...
Read more東京都下は三鷹市に有ります「禅林寺」さんです。近くにラーメンを食べに来たので合わせて見学させて頂きました。
こちら禅林寺さんの創建年は不明ながら、江戸時代初期の「明暦の大火」で神田連雀町から避難移住して来た町民の人々によって創建されたとの事です。と言う事は創建年は明暦年間(1655年~1658年)でしょうか?
その後、元禄十三年(1770年)の台風にて倒壊しましたが、再興され禅林寺という名称に改められたとの事です。
寺には太宰治と森鴎外の墓所が向き合う様にありました。自分は20代の頃に酷く自虐的な青の時代が有り、「自分は人間失格」だ等と思い、太宰治の「人間失格」を読みました。なので懐かしくも有り手を合わせに来た次第です。
因みに太宰治が亡くなった時に、禅林寺の檀家さん達は太宰治の墓所をこの禅林寺に定める事を猛反対したとの事です(なぜでしょう?スキャンダラスな物書きだから?)。しかし、当時の住職が檀家さん達を説伏せ墓所に定めたらしいですね。
あとは太宰治の墓の横には、太宰治夫人の津島美知子の墓所も有ります。
寺には3本ぐらい大樹がありました。樹齢数百年ぐらいの江戸時代からの大樹でしょうかね。
皆さんも是非にブ...
Read more黄檗寺院、住持の木村得玄氏は黄檗研究者でもあり『隠元禅師年譜〔現代語訳〕』『黄檗宗の歴史・人物・文化』『楞厳呪――現代語訳と解説』『初期黄檗派の僧たち』『校注 江戸黄檗禅刹記』『黄檗宗資料集成 第一巻』『黄檗宗資料集成...
Read more