高校敷地の直近で、散策路が学校内をかすめるほどなので、この城は、学校の休日に訪問した方が良いでしょう。
当時の建物は現存しませんが、綺麗に削られた曲輪(くるわ、陣地や素朴な建物があった平地)、井戸、切岸(きりぎし、人工的にカットして角度を急にした斜面)が明瞭に残っていて、中世の城跡として立派で価値のあるものです。
また、周辺の山々に家臣の支城が多くあったようです。 例えば、北東の湖山神社が建つ山は「裏山城」という城があったと伝えられ、現在も曲輪の跡が山中に残っています。その裏山城の麓には、大量の五輪塔もあります。
この山だけで考えると、防御力が低そうに見えますが、周囲の家臣の城と連携したり、湖山池の水を引いた水堀を作ったりして、守りを固めていたようです。それを反映した後世の絵図もあります。
鳥取県の戦国時代を考える上で大変重要な城跡ですので、地道...
Read more15世紀、南北朝時代は天下を二分する動乱期でした。ここ因幡の守護職はこの地に置かれました。お隣の但馬の守護職山名氏と同族でありながら争いを始めます。 文正元年(1466年)因幡の守護職山名勝豊は「天神山城」を築き上げました。国の守りを固めるため三重の櫓の天守閣やしっかりとした城下町をこしらえました。 この間様々な下剋上の争いを経て107年が経過し、天正元年(1573年)山名豊国はこの城を廃止し、久松山鳥取城へ移りました。 [鳥取城は天文14年(1545年)但馬の本家との争いの渦中、天神山城の「出城」として築かれていて、ここ天神山城から久松山山頂が見えていた] 豊臣秀吉による鳥取城...
Read more先達の田中正典さんのコメントは秀逸なので皆さん読んでほしいです。 自分自身の感想ですが、今残されている遺構部分は小さいながら、ほぼ垂直な断崖に囲まれ割と堅固な城に思われました。また、東屋からの湖山池の景色もよく湖山池八景(夕日の部)にも選ばれてるほどです。(ここだけでは物足りず直後に行った防己お嬢の看板で知りました))ホント、田中さんがすべて語りつくしててほかに書...
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