三河国分寺は正式名称を「金光明四天王護国之寺」というそうです。その伽藍は、180m四方のほぼ正方形の築地塀に囲まれていました。その築地塀の中に、南大門、中門、金堂、講堂、僧坊跡が南北一直線上に並び、中門と金堂を東西の回廊で結んでいました。さらに、西側には塔がある、高度な測量建設により建設されています。(画像参照)
南大門から東西に伸びた築地塀で、寺の敷地(伽藍地)が囲まれています。東西の大きさは17.6mと推定されているそうです。
金堂と中門を結ぶのが東西の回廊です。この回廊様式は三河国分尼寺跡に復元されている廊下の中央に壁のある複廊というものだそうです。(あの回廊が左右から本堂を結んでいたと考えると壮大です)
金堂は、その基壇(お堂の土台部分)が東西34.5m、南北21.3mでした。これは、三河国分尼寺の金堂とほぼ同じだそです。
講堂は東西30.3m、南北13.6mで、これも国分尼寺の講堂とほぼ同じだそうです。
講堂の北側には僧坊とみられる建物が、令和元年度の発掘調査で確認されました。
西側にある塔には、聖武天皇が写経した「金光明西勝王経」が収められていたそうです。
こうした建造物が、740年ごろに建てられて、その遺構が残って発掘されている…すごくないですか?まず、三河天平の里資料館、三河国分尼寺を見学してから、こちらに来ることをお勧めします。わたしは逆でしたので、うろうろし過ぎて、疲れ果ててしまいました…2025/04/21
”発掘だより No.45” 豊川市教育委員会生涯学習課 https://www.city.toyokawa.lg.jp/material/files/group/47/dayori45.pdf (参照2025-04-25)
”史跡三河国分寺跡整備基本構想の概要” 豊川市 https://www.city.toyokawa.lg.jp/material/files/group/47/ufile_enjoy_11797.pdf...
Read more愛知県東部、豊川市街地から西方の音羽川と白川に挟まれた洪積台地(八幡台地)南端部に位置する1。聖武天皇の詔で創建された国分寺の法燈を継ぐ寺院で、古代国分寺は10世紀後半頃に廃絶したと見られるが、その後の16世紀に現国分寺が再興されたという。再興後の境内は古代国分寺跡と重複していたが、現在は東方に移されている。付近では三河国分尼寺跡のほか三河国府跡(白鳥遺跡)・船山1号墳(東三河最大の古墳)も立地し、古くから政治的中心地であったことが知られる[1]。
古代国分寺跡については1922年(大正11年)に国の史跡に指定され[3]、1985年度(昭和60年度)以後に数次の発掘調査が実施されている[4]。また現国分寺では、平安時代の作とされる銅鐘(国の重要文化財)・木造薬師如来坐像(愛知県指定有形文化財)を現在に伝世す...
Read more妹分の国分尼寺は発掘調査の上、当時の伽藍の一部が再現されて、公園として一般開放されているのに対して、こっちのお兄ちゃんときたら…。 まるで寅次郎とさくら、もしくはスキャンダル続きだったマイケルジャクソンと、リズムネイションの頃のジャネットジャクソンのよう(何が言いたいんだ?)。
ここも国の史跡に指定されており、その趣旨目的から説明の看板はありますが、それだけ。ぱっと見は只の空き地で雑草伸び放題。 また、南大門左手にある塔跡にはかろうじて盛り土が確認でき、その中心には礎石もあるようですが道が整備されておらず、見に行けませんでした。
せめて草刈りをするとか、未舗装で構わないので導入路を造るとか、「やる気」を...
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