水戸街道を城内に取り込み、霞ヶ浦の水運を抑える交通の要衝にあります。周りが低湿地で、城の周辺だけが亀のように丸く盛り上がって見えたので「亀城」とも呼ばれました。天守は元々存在しない城ですが、それに替わる象徴的な建造物として西櫓と東櫓が復元されており、本丸櫓門としては関東では唯一現存する太鼓門も見どころの一つです。
15年ぶりにここを訪れたのですが、なんか違和感が・・アレ? 以前に来た時は太鼓門に土塀なんか接続していなかったはず。城の整備がさらに進んでバージョンアップしていたようです。城マニアとしては嬉しい限りですね。
新しく復元された南側土塀にはフタのついた、ひときわ大きな狭間が太鼓門の両脇に付いており、コレは大砲用とのことです。丸太を利用した破城槌で門扉を打壊しようと接近する敵を、装備ごと吹き飛ばすために特別に設けられました。 確かにここから覗くと、門に近づいてくる敵(観光客)が良く見えます(笑)。この調子で、ぜひ特徴的なジグザグを持つ北側の土塀の復元もお願いします。
話は変わりますが、ここで土浦城に関わる二人の興味深い人物を紹介したいと思います。一人目は「戦国最弱」で検索すると、不幸なことに真っ先に名前が出てくる小田氏治さん(笑)。本拠地は筑波山麓にある小田城なのですが、なんと9回も陥落しているのですよ。その主な逃亡潜伏先が、この土浦城でした。
とにかく要領が悪く戦が下手で、結城氏、佐竹氏、上杉氏に何度も城を落とされます。しかし9回落城するためには、8回は取り返さなくてはならない訳で(笑)なぜか家臣達だけではなく領民までが小田城奪回に協力してくれるんですよね。
つい周りが「この人を支えてあげなくては」と助けたくなる、放っておけない愛嬌ある人物だったのでしょう。その氏治が「また、やってしまったか・・」と土浦城で困り果てている姿を想像すると可笑しくなります。
二人目は江戸時代に、最も長期に土浦城を統治した大名である土屋氏の祖、土屋昌恒です。土屋氏は「武田氏遺臣の流れ」とあるので、もしかして「片手千人斬り」の昌恒さんの縁者かな?と思っていたらやっぱりそうでした。
土屋昌恒は織田徳川北条連合軍の甲州征伐に際し、皆が武田勝頼を見捨てて逃亡してしまった中で、最期まで勝頼の側を離れず運命を共にした人物です。
大月の岩殿城を目指して逃亡中の勝頼一行は、途中で小山田氏の裏切りにあって追い返され路頭に迷ってしまいます。では武田氏の先祖の墓がある天目山の栖雲寺で自決しようと、日川渓谷沿いの細い山道を進み始めたのですが、そこにまで賞金首狙いの土豪が待ち構えていたのです。
当時そこは人がやっと一人通れるぐらいの細道で、傍らは日川の削った絶壁だったのですが、昌恒は追いすがる賊を斬っては捨て、片手で藤蔓に捕まっては川に叩き落とし、日川が三日間血に染まったと言われるほどの奮闘を展開します。コレが「片手千人斬り」です
勝頼一行は日川下流の田野までの撤収に成功しますが、今度はそこに追撃してきた織田軍の滝川勢4,000に捕捉されてしまいます。総勢40人弱に過ぎない勝頼勢は多勢に無勢でついにここで壊滅しました。ところで、この土屋昌恒の子孫が、どうして武田氏の一家臣から大名にまで出世していたのでしょうか。
実は徳川家康は信玄を尊敬するあまりなのか、何度もヒドイ目にあわされた勝頼の境遇にも同情的で、菩提を弔うため敵である勝頼の最期の地に景徳院を建てている程だったのです。そのためか「あっぱれ忠臣の家系」として、忠恒の遺児である忠直を「これからも主を守ってくれるに違いない」と二代将軍秀忠の小姓として召し出し、一緒に育てました。
秀忠としても小さい頃から側にいる気心の知れた仲であり、何でも相談できる相手として忠直を久留里藩の藩主にまで出世させてくれたのです。そして忠直の次男である数直は今度は三代将軍家光の近習となって更に出世を重ね、土浦藩主としてココにやって来ます。
昌恒の最期は悲愴なものでしたが、子孫達は十分に報われました。そんな土屋氏のサクセスストーリーの終着点がこの土浦城なのです。そう思って城を眺めると、また感慨...
Read more別名 亀城 城の形式 輪郭式平城 天守閣 無し
・土浦藩立藩前史…平安時代の天慶年間(938年〜947年)の何れかのこと。平将門が、この土浦の地に砦を築いたのが始まりで、室町時代の永享年間(1429年〜1441年)に常陸国(現在の茨城県)の守護大名の八田知家の末裔にあたる小田氏に属する若泉三郎が正式に土浦城を築く。
永正13年(1516年)に小田氏の武将の一人の菅谷勝貞が、土浦城城主の若泉五郎右衛門に対し宣戦を布告をして、若泉家を滅ぼし、菅谷氏が城に入る。 それから、勝貞、正貞、範長に渡り城を守る。しかし急速に勢力を拡大していた。常陸国最強武将の一人で、『鬼佐竹』こと、佐竹義宣により、菅谷氏の主君の小田氏は城はあっけなく奪われてしまう。そして拠点を失った小田氏は、家臣の菅谷氏が治める土浦城に入る。
土浦城に入った小田氏だが、結局は佐竹義宣により滅ぼされる。そして戦国乱世は終わり、江戸時代に入る。
・土浦藩立藩… 慶長5年(1600年)、下総国(現在の千葉県の一部、埼玉県の一部)の結城城に徳川家康公の次男の結城秀康が入る。それに伴い秀康の家臣の多賀谷政広(2050石)が土浦城に城代として入る。同年11月に秀康は越前国(現在の福井県)福井藩68万石で移封する。
替わりに藤井系松平信一が3.5万石で土浦に入り土浦藩が立藩する。信一は養子の信吉に土浦藩を継がせ、信吉は土浦城の改修工事に入り、水戸街道を城下町に取り込み南門、西門、北門までの整備が終わったところで、上野国(現在の群馬県)高崎藩へ移封となる。
替わりに上野国白井藩より大坂の陣で功績があった西尾忠永が2万石で入る。忠永の子忠照の時に、駿河国(現在の静岡県)田中藩へ移封となる。
替わりに下野国(現在の栃木県)鹿沼藩より朽木稙綱が3万石で入る。稙綱の子の種昌は丹波国(現在の京都府)福知山藩へ移封となる。
替わりに徳川家第3代将軍の徳川家光公の側近で幕府若年寄の土屋数直が寛文2年(1662年)1万石で入部する。数直は幕府老中まで進み、所領も4.5万石まで加増される。数直の子政直は駿河国田中藩へ移封となる。
替わりに、やはり徳川家第3代将軍徳川家光公の懐刀で最側近だった『知恵伊豆』こと松平伊豆守信綱の5男の松平信興が2.2万石で入る。しかし直後に大坂城代に任ぜられ短期間で大坂城近くの摂津国又は河内国(両方とも、現在の大阪府)に5.5万石に加増され移封する。
再び駿河国田中藩より、土屋政直が6.5万石で入る。以降、土屋家が10代に渡り明治維新まで土浦の地を支配する。土屋家はこの後も5代将軍徳川綱吉公、6代将軍徳川家宣公、7代将軍徳川家継公、8代将軍徳川吉宗公に渡り幕府老中職を務め、所領も3万石を加増され、9.5万石にまで拡大する。途中、土屋家は男子に恵まれない時期があり、9代藩主土屋彦直(よしなお)は水戸徳川家第6代藩主徳川治保公(徳川治保…とくがわ・はるもり、水戸徳川家第2代藩主徳川光圀公の再来と言われた名君にして、水戸家の財政を立て直した水戸家中興の祖)の3男。11代藩主土屋挙直(しげなお)は水戸徳川家第9代藩主徳川斉昭公の17男。そのため幕末は徳川家最後の将軍徳川慶喜公と縁戚だったため、佐幕派と討幕派の間で苦しい立場となる。
明治維新後に廃城令が出るも、土浦城の城郭は残り、本丸御殿は新治県の県庁舎として使われ、郡役所としても使われる。 明治17年(1884年)火災で本丸御殿が焼失。他の建物にも損傷を受ける。 明治32年(1899年)本丸と二の丸と二の丸南側を亀城公園となる。
昭和24年(1949年)キティ台風により西櫓が被災する。
平成10年(1998年)東櫓が土浦市立博物館の付属展示館として復元する。 平成23年(2011年)東日本大震災で、太鼓櫓門、東櫓、西櫓が破損する。 平成24年(2012年)太鼓櫓門、東櫓、西櫓、土塀の復旧工事が完了する。 平成29年(2017年)続日本100名城の第113番目に登録される。
アクセス JR常磐線、上野東京ライン、又は特急ひたち号、ときわ号で、土...
Read more20200530~31第3回茨城⇔千葉...
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