立花(戸次)道雪、立花宗茂の菩提寺です。
戸次鑑連は家督を譲ってから出家し道雪を名乗ったそうで、主の大友宗麟がおいたをする度何度も諫言をして戒める事が出来た唯一の人物です。
なので、道雪が亡くなると主家の大友宗麟の暴走を誰も止められなくなり離叛者が続出し、大友家の衰退が始まってしまいます。
道雪は千鳥という刀を愛用し、ある晴れた日、木の側で寝てたら突然落雷にあったそうで、その際にその雷を叩き斬ったとのこと。 それ以後その刀は雷斬(切)丸と呼ばれるようになったという逸話が残っています。
また、武田信玄に‘’一度は戦ってみたかった‘’と言わせた武将でもあったそうですよ。
戦国最強の娘婿殿、立花宗茂公は主家の大友家が豊臣家臣になった後の九州平定時に大活躍し、大友家から独立、豊臣直臣に抜擢されました。
後の関ヶ原の戦いでは豊臣家への忠義で西軍に加担したので、敗戦後は家康により改易の憂き目に会い、立花宗茂も一旦は柳川城を追い出され浪人になります。
しかし嫁の誾千代死後の1年後、豊臣家も滅亡し、2代秀忠の時代には徳川直臣になって再度柳川城の城主に返り咲いているんですよね。
一旦主と決めたら、とことん忠義を尽くすというのもあったのかもしれません。 関ヶ原で西軍に就きながら、旧領復帰した大名という異例の処置を受けています。
それだけ優秀な武将だったと言うことですね。
そういえば、関ヶ原の戦時に西軍で孤軍奮闘した島津義弘は九州平定前の覇権争いの時に宗茂の実父(高橋紹運)を討った旧仇ですが、互いに九州へ敗走する途中にばったり会ったそうです。
‘’島津の退き口‘’の撤退戦でほぼ家臣が残っていない状態の島津義弘に対し、立花家臣達が今こそ仇を討つチャンス!とざわつくのを宗茂本人が‘’敗軍を討つは武家の譽れに非ず!‘’と言って制止し、逆に義弘の護衛を買ってでて一緒に帰途に付いたと言うんですからあまりにもカッコ良すぎですね。
正に‘’強敵‘’と書いて‘’トモ‘’と読ます関係性がここに生まれます。
2024年5月7日に伺いましたが、ちょうど祭りの準備でお忙しそうな中でもちゃんと丁寧に御朱印の...
Read more☆梅岳山福嚴寺(ばいがくさん ふくごんじ)☆ 戦国無双「立花宗茂」を筆頭とする江戸時代の柳川藩「立花家」本領柳川の菩提寺。 元は立花宗茂の義父「戸次鑑連(立花道雪)」が立花村に天正3年(1575年)立花山養孝院を開基、宗派の改変や立花宗茂の柳川転封などで立地変遷、江戸時代初期の「田中吉政」藩主時代には破却の運命に遭遇も、元和6年(1620年)「立花宗茂」旧領に復帰し復興「立花家」菩提寺に、2代藩主「立花忠茂」を経て3代藩主「立花鑑虎」が延宝2年(1674年)曹洞宗から黄檗宗に改宗、更に大雄宝殿・禅堂など伽藍整備👀 現在は山門を潜ると広々した明るい境内に本堂・開山堂・鐘鼓楼・天王殿などがありゆっくりと拝見し参拝、本堂の北側裏手に立花宗茂・立花道雪などの「御霊屋」がひっそりと厳かに佇んでいました、これて良かった🚶
☆御霊屋の場所は本堂の左手から本堂裏手へ、 駐車場は東側の山門前に4〜5台ほど参拝者専用の無料駐...
Read more柳川藩立花家の菩提寺。もともと曹洞宗でしたが、延宝2年(1674年) に臨済宗黄檗(おうばく)派に改宗。3代藩主忠茂が黄檗の教えに帰依していたことに由来するようです。これ以後、柳川では黄檗寺院が数々開かれ、中国風精進料理である「普茶料理」が広まっていきます。幕末さらに維新後の混迷を乗り切った柳川藩家臣立花壱岐は、明治政府への出仕要請を断り、柳川に隠居し生涯を終えます。当...
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