【 2025/06/17(火)布陣 】 関ヶ原古戦場の「岡山(丸山)烽火場(のろしば)/黒田長政(くろだ ながまさ)・竹中重門(たけなか しげかど)陣跡 」→ 岡山は丸山とも通称される標高164mの丘陵で、小早川秀秋が布陣した「松尾山(まつおやま)」・石田三成が布陣した「笹尾山(ささおやま)」・東山道(中山道)・北国街道等が一望でき、戦いの最中も戦況がよく見渡せる場所でした❗️👀✨
戦い当日の朝、黒田長政と竹中重門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣しました。重門は当時、関ヶ原一帯を領していたので、地の利を活かしたものと推測されます。重門は、はじめ西軍に与(くみ)していましたが、岐阜城🏯落城後、井伊直政(いい なおまさ)の仲介により東軍へ転じました。 また、南宮山の吉川広家(きっかわ ひろいえ)と松尾山の小早川秀秋(こばやかわ ひであき)は、黒田長政によって既に調略(ちょうりゃく)されていました。
午前8時頃に開戦すると、この場所から攻撃の合図の烽火(のろし)が上がったとされています。
黒田長政と竹中重門は少年時代の約1年間、隣村で共に過ごした旧知の間柄だったそうです。 秀吉が恐れた男:黒田官兵衛(如水)と、頼りにしていた男:竹中重治(半兵衛)の両息子が、共にここ岡山(丸山)で奇しくも陣を敷いたのでした。
※秀吉の軍師だった竹中半兵衛の死後、それを引き継いだ黒田官兵衛が秀吉の軍師となり、秀吉を天下人へと導いたワケですが… 官兵衛の潜在能力を秀吉は見抜いていたようで、天下を取って代わられるのではないかと、警戒していたようです😱💦
岐阜関ヶ原古戦場記念館で(電動アシスト無しの普通の)レンタサイクル🚲を借りて訪れましたが、関ヶ原巡りは坂が多いので😱💦、💰少し高いですが「電動アシスト付」のレンタサイクル🚲を借りて巡ることをオススメします❗️
黒田長政・竹中重門陣跡は、近くの駐車場🅿️に自転車🚲を駐輪して、急な坂を5分くらい徒歩で登った場所にあります🚶💦 ...
Read more歴史のロマンを 2024年5月上旬、レンタサイクルでの関ヶ原探訪の際に寄りました。 こちらの北側に駐車(駐輪)スペースがあり、そこから10分弱登ると辿り着きます。 こちらからは戦場全体が見渡せ、設置されている説明板を読むことで理解を深めることができました。 説明板には ————————————————————- 岡山は丸山とも通称される標高164メートルの丘陵で、松尾山・笹尾山・東山道(中山道)・北国街道等が一望でき、戦いの最中も戦況がよく見渡せたであろう場所である。戦い当日の朝、黒田長政と竹中量門の約5千は東軍の最右翼としてここに布陣した。重門は当時、関ヶ原一帯を領していたので、地の利を活かしたものと推測される。 重門は、はじめ西軍に与していたが、岐阜城落城後、井伊直政の仲介により東軍へ転じた。また、南宮山の吉川広家、松尾山の小早川秀秋は、長政によって既に調略されていた。 午前8時頃に開戦すると攻撃の合図の蜂火を上げ、細川忠興・加藤嘉明・金森長近らとともに笹尾山の石田三成を攻撃したが、三成の家臣・島左近(清員)の奮戦により幾度も押し返される。長政は戦況を打破すべく、一隊を割いて笹尾山北側へ迂回させ、石田隊を側面からも攻撃した。この策は功を奏し、左近は長政の家臣・菅六之助の銃撃で負傷したとされる。一進一退の攻防が続く中、正午頃に秀秋らが寝返り戦況は一気に好転。西軍諸隊は総崩れとなって敗走する。黒田隊は東軍諸隊とともに、なおも踏み止まっていた石田隊に最後の猛攻を仕掛けてこれを壊滅させ、ついに勝負を決した。 ———————————————————— とあり 歴史のロマンを...
Read moreここの裏側に駐車場があり、そこから約2.3分登ったところにあります。 石田三成の陣も徳川の陣も見渡せる場所です。 ここからだと戦況はよく分かったのではないかと思います。
関ケ原観光ガイドHPより 国道21号線(関ケ原バイパス)の北側にある小高い山が、岡山(丸山)になります。登頂すると、南宮山・松尾山・笹尾山・中山道・北国街道・伊勢街道…といった、合戦時の重要なポイントを一望することができます。豊臣恩顧の武将であった竹中重門は当時関ケ原一帯を領しており、最初は西軍に属していましたが、岐阜城落城後、黒田長政の勧めにより東軍につきました。合戦時には、長政とともにここへ陣取り、戦機を見て烽火(のろし)を上げました。山頂からは、周辺の状況が把握しやすいこともあり、開戦の烽火を上げるには好適地...
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