岩肌をくり貫き、観音像を祭ったところから観音と呼ばれています。 岩室観音堂は、吉見百穴から近く松山城趾がある丘の麓にある、まさにパワースポットという雰囲気の場所です。 吉見百穴→岩室観音堂→松山城趾と3箇所を散策しても1時間半〜2時間くらいなので、時間があれば3箇所セットで回るのがお勧めです。
岩室観音の始まりは、平安時代初期の810~824年と言われていますが、確かな記録は残っていません。 松山城主が代々信仰し護ってきましたが、1590年の松山城攻防戦の際に兵火にあって当時のお堂は焼失してしまいました。 現在のお堂は、江戸時代の1661~1673年に再建したものです。 お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては大変珍しいものだそうです。懸造り様式というのは、崖や山の斜面に長い柱などで床下を固定して建物を建てる建築様式で、京都の清水寺が典型的な例として分かりやすいと思います。
お堂は、江戸時代再建なので、現存天守のような歴史を感じます。階段の急勾配ぶりはまさに現存天守並みです。
お堂に入ると左右の洞窟内にたくさんの石仏が安置されています。その数は88体で、「四国八十八ヵ所」の霊地にたてられた本尊を模したものと言われ、 ここにお参りに来れば居ながらにして四国八十八ヵ所をお参りしたのと同じ巧徳を得られるとされているようです。
また、お堂から山側を見ると岩の斜面に胎内くぐりが見えます。この胎内くぐりは穴がハート型になっており、ここで胎内くぐりをすると、...
Read more吉見百穴の直ぐ近くにある岩室観音堂。 岩室観音堂は、弘法大師が彫った観音像をこの岩窟に納めたのが始まりで、今から1200年余りもの歴史があります。
この観音堂は松山城の入口に鎮座しています。 松山城といってももちろんあの四国愛媛のではなく、現在の埼玉県吉見町(武蔵国横見郡松山)にある別名・武蔵松山城のことです。 松山城主が代々信仰し護持していましたが、松山城の攻防戦(1590)の際にお堂が焼失。 現在のお堂は、江戸時代に龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て再建したものだそうです。
御堂の天井を見て思わず感嘆の声が漏れました。 丸太の梁が幾重にも重なった様子にしばし見とれてしまいました。
岩室観音は「比企西国三十三所観音札所」の第三番です。 また、ここにある石仏は、四国八十八ヶ所弘法大師順錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模したもので、八十八体の仏像が祀ってます。 この石仏を拝めば、四国八十八ヶ所を巡拝したのと同じ功徳があるそうです。
御堂の奥左手には♡の岩をくぐる胎内めぐりがあります。 急な斜面を鎖に伝って上り、頂点にあるハートの形をした穴をくぐって下って来ます。 安産、難避けのご利益があるそうです。 また縁結びにもご利益があるのか、カップルが仲良く連れだってくぐってました。
御朱印は岩室観音を出て左に上った先650mにある龍性院でいただきました。 岩室観音は龍性院の...
Read more弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4㎝)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に松山城の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。 現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしてはめずらしいものである。 岩室観音は「比企西国三十三所観音札所」の第三番であるが、札所めぐりとしては「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」が有名で、「比企西国三十三所」は、それほど知られてはいない。比企西国三十三所は、遠隔地を巡礼できない人々のために享保8年(1723年)に開設されたと言われており、江戸時代にはこうした地域ごとに完結する札所めぐりが数多く創設されたようである。 また、ここには88体の石仏が収まっているが、これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模したものである。この弘法大師が修行した四国八十八箇所を巡拝することを「遍路」と呼び、観音霊場を巡る「札所めぐり」とは区別される。(HPより) また、境内には、ハート型の胎内くぐりがあります。 ただ、クサリを使って上るような急な勾配があり、足元も不安...
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