武蔵国の中原にあるこの城の攻防をめぐって武田信玄、上杉謙信、北条氏康といった戦国のスーパースター3人が揃い踏みをしたという夢の舞台でもあります(笑)。大リーグの大谷にテニスの錦織、バスケの八村まで揃ったような豪華さなのですが、なぜ地元ではキレイに整備して観光開発しないのか、本当に不思議です。
と思っていたら、城の敷地は民有地で好意で貸し出されているとのこと。権利関係もあって現状を変えるのは難しいのかもしれませんね。皆様も汚したりしないよう、節度ある利用をお願いします。
さて現在の、外堀も兼ねている市野川側からの登り口は、いきなり最終防御拠点の本曲輪に出てしまううえに、観覧順序案内のようなものも無く見通しも悪いので、これからどこに行っていいのか戸惑ってしまうと思います。ご案内しますので敵の進攻路とは逆方向に進んで行きましょうか。
まず入ってきたときの階段から本曲輪の右方向に進むと空堀に降りる道があります、その先が二の曲輪です。これでも城内で最大の郭です。周囲を巡るとやや低い位置に二の曲輪を囲むような形で帯状の細長い郭が見え、それが三の曲輪になります。さらに先には、まとまった大きさの平地があり曲輪四と呼ばれているようです。コチラ側が敵から見た城の正面であり、かつては大手門が開いていたのでしょう。 遠回りになりますがコッチ側からも城に入れますので、その方が城の堅固さが実感出来ると思います。
さて城の構造としては入り組んだ深くて広い空堀が印象的です。実は面積的には有効敷地である曲輪よりも、空堀の方が大きいのだそうです。空堀になだれ込んできた敵を複雑な内部に引き込み、地理に不案内な敵を曲輪上から袋叩きにする計画でした。 その意味では、この城の本当の主役はこの空堀と言えるでしょう。
しかし秀吉の小田原攻略の前哨戦として、直江兼続をはじめとする北陸軍約5万という想定を超える大軍に包囲された時には、なす術なく無血開城してしまいます。守備側は多くても2000~3000人程度と見積もられているので、勝負として成立しないですよね(笑)やむを得ないと思います。その後は廃城となり再利用されることもなかったので、戦国当時の縄張りが改変されることもなく、素晴らしい状態でそのまま残りました。
この城は保存状態はいいだけに、群馬県の名胡桃城のように土塁や空堀を復元し木橋を架ければ、ずっと見栄えがすると思うのですが・・そこに3人の名将の銅像を建てれば完璧です(笑)。 モノが良く、城にも物語があり状態も素晴らしいだけに、...
Read more武蔵松山城の築城は、新田義貞や上田友直など複数の説があります。戦国期に北条氏綱が河越城を落とし、松山城を攻めた際は難波田氏が撃退し、松山城を失った扇谷上杉氏当主朝定の居城となり、拡張工事が行われたそうです。しかし上杉朝定が河越夜戦で敗死し、扇谷上杉氏が滅亡すると、北条氏が城主となります。扇谷上杉氏の再興を目指す太田資正に一度は奪還されますが、城代となった上田朝直が北条方へ寝返り、再度北条氏に渡ります。 その後上杉謙信の関東遠征により松山城が落ち、太田資正が城代となりますが、北条氏康と武田信玄の連合軍の前に陥落します。この際、なかなか落ちない城に対して、武田氏が金堀衆を使って攻城を試みるも城方に露見し防がれたという伝説も残ります。その後は上田氏の居城として北条氏の勢力下に置かれますが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に前田利家、上杉景勝連合軍の包囲により落城、徳川家康の関東入封後は松平氏が治めますが転封し、川越藩領となり松山城は廃城されました。 事前の口コミで藪がすごいとのことで、1月上旬に行きました。東松山駅からバスで5分程度、吉見百穴で下車します。案内板のある本曲輪の背後から登ります。冬場ということもあり落ち葉の量がすごいですが、下草が枯れており遺構が見やすく、これが夏場だと蚊や虫がすごいだろうとぞっとします。絶対に冬場がおすすめの城です。城域の半分が堀と言われるだけあって、本曲輪やニノ曲輪の堀切の高低差や三ノ曲輪の土塁など非常に見応えがあります。特に三ノ曲輪は横長に広がっており馬出しや周囲の堀の高さなど見どころがたくさんあります。オススメのコースは、本曲輪→ニノ曲輪→三ノ曲輪→曲輪4を出た後再度、曲輪4→三ノ曲輪→ニノ曲輪→本曲輪を往復するコースで、ゆっくりみて約1時間程です。行きには見れなかった高低差をしっかりと感じることができ、本曲輪に向かって高くなって攻め手には攻略が難しいことが実感できます。本曲輪に戻ったら兵糧倉→惣曲輪へと抜け最後に虎口を見学できます。 歴史的にも攻防戦が繰り返され、戦力上も重要な拠点だけあって関東の平山城でも屈指の規模です。私有地ということもあってか、整備はそれほど進んでいませんが、少ない兵力でいかに有効に城を守るかという工夫の凝らされたお城です。繰り返しになりますが、絶対に...
Read more曲輪の保存状態は思いのほか良好なものの、ぼうぼうと生いしげる草木が曲輪からの眺望をさえぎり、城址としての見ごたえを損なっているのは何とも惜しまれます。 武蔵松山城は武蔵国人の上田氏築いた城で、扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方の三者の間で争奪戦が繰り広げられ、後北条氏の勢力が武蔵国までおよぶと、三者は結束して後北条氏に対抗し、さらには山内上杉氏の名跡を継いだ越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄まで参戦してしっちゃかめっちゃかな状況になりますが、後北条氏の家臣となった上田氏が城主となってひとまず状況は落ち着きます。豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家、上杉景勝らが率いる大軍に包囲されて落城、徳川家康の江戸入府後は一時松山藩の藩府となりますが、後に松山藩は川越藩に組み込まれて松山城も廃城となります。 松山城跡は菅谷館跡、杉山城跡、小倉城跡と共に、比企城館跡群として国の史跡に指定されていて、同じく国指定史跡の吉見百穴の近くにあります。JR高崎線鴻巣駅~東武東上線東松山駅を結ぶバス路線の途中にあってアクセスも便利です。しかしながら訪れる人もまれなのか、手入れは不十分です。草木は生い茂るがままで、夏場であれば蚊がわんさといます。ハッカ油で自衛していたものの、それでも結構やられました。曲輪と堀は一見してわかる良好な状態で保存されているものの、緑のカーテンにさえぎられて眺望は無きに等しく、城郭としての機能を体感できません。松本城を守る天然の堀であった市野川も見えません。草を刈り、木を伐い、往時を彷彿とさせる状態に整備されたなら各段に見ごたえは増していたに違いなく、...
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