岩殿寺(がんでんじ)
ご詠歌:たちよりて天の岩戸をおし開き 仏をたのむ身こそたのしき
養老5年(721)徳道上人が創建し、行基が十一面観音像を造立して安置したといわれています。
鎌倉時代には源頼朝によって寺領が寄進され、しばしば参詣しました。その後衰退しましたが、天正19年(1591)徳川家康によって再興され、明治時代の廃仏毀釈で再び衰退しました。
建久3年(1192)8月9日、源実朝は源頼朝と北条政子の間に次男として生まれ、千幡と名付けられました。
建久10年(1199)に父が死去し、兄の源頼家が将軍職を継ぎましたが、建仁3年(1203)9月、比企能員の変により将軍職を失い、伊豆国に追放され、翌年北条氏の刺客により暗殺されました。
千幡は12歳で元服し、後鳥羽院の命名により、実朝と称し、第3代征夷大将軍となりました。
元久元年(1204)12月、京より後鳥羽の従妹で寵臣・坊門信清の娘を正室に迎え、翌年4月には12首の和歌を試作、後鳥羽が勅撰した『新古今和歌集』を京から運ばせる、京都の藤原定家に和歌の評を請い、幕府御鞠始、歌会を催し、上洛を望んだり、生涯、朝廷を重んじました。
かつて公家化した平家のように源実朝も陥り、京の支配からの独立を目指した鎌倉政権とは考えを異にしました。
北条義時から弓馬のことを忘れてはいけないと諌められたり、酒宴の席でも「武芸を事となし、朝廷を警衛せしめ給ふは、関東長久の基なるべし」と語られたといわれます。
建暦3年(1213)2月16日、御家人らの謀反が露顕しました。2代将軍頼家の遺児・栄実を大将軍とし義時を討とうという企てで、その中には侍所別当を務める和田義盛の子である義直と義重らもいました。
謀反人の多くは配流に処されましたが、3月8日実朝は和田義盛の功労を考え、息子二人の罪を許しました。しかし、甥の胤長は首謀者として許さず、和田一族90人の前に捕縛した胤長を晒し、陸奥国に配流しました。
恥辱を与えられ、北条義時からの冷たい対応に対して義盛の謀反が聞こえ始め、5月2日、義盛の兵は幕府を囲み、御所に火が放たれ、鎌倉で激しい市街戦が展開されました。
武勇で知られる和田一族は奮戦しましたが、幕府軍は大軍となって押し返し、翌日の夕刻までに和田一族は次々と討たれました。義直も討ち死にし老いた義盛は悲嘆号泣したといいます。そこへ襲撃され、首を刎ねられました。享年67でした。
建保6年(1218)12月2日、武士としては初めて右大臣となり、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが後鳥羽上皇から贈られました。
建保7年(1219)1月27日、雪が2尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎え、夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ頼家の子の公暁に襲われ、実朝は落命しました。享年28でした。
この実朝の死は様々な憶測がされています。
義時は事件直前に体調不良で屋敷に引き返したとも、実朝の命により儀式の行われた本宮には同行しなかったともいわれています。
出発の際に大江広元は落涙したともいわれ、庭の梅を見て詠んだと伝わる辞世の和歌は「出でいなば主なき宿と成ぬとも軒端の梅よ春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される。
実朝の首は持ち去られ、落命の場は鶴岡八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わっています。亡骸は勝長寿院に葬られましたが首は結局見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺したといいます。
実朝には子がなかったため、源氏将軍および初代源頼信から続く武家の棟梁を継ぐ河内源氏嫡流の血筋は断絶しました。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、家集として『金槐和歌集』があります。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされています。
和歌
世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも
もののふの 矢なみつくろふ 小手の上に 霰たばしる 那須の篠原
大海の 磯もとどろに よする浪 われて砕けて 裂けて散るかも
流れ行く 木の葉のよどむ えにしあれば 暮れての後も 秋の久しき
山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも
くれなゐの ちしほのまふり 山の端に...
Read more2015/05/20に関東百八地蔵霊場で巡拝しました。 この寺院は、有名な坂東三十三観音霊場の二番札所でもあります。ご本尊は「十一面観世音菩薩」で通称「岩殿観音」と呼ばれています。 本堂右には、明治の文豪泉鏡花が寄進した「鏡花池」があり、「普門品ひねもす雨の桜かな」の鏡花の句碑が門前にあります。 「吾妻鏡」に、頼朝、政子、大姫、実朝らの参詣がしばしあったことが記されており鎌倉時代には隆盛を極めた。頼朝が文覚上人の勧めにより、この本尊を信仰、治承四年(1180)石橋山の敗戦で房州洲崎に逃れる際、観音菩薩が船頭となり無事送ったという話は有名です。 坂東観音霊場は、この頼朝公が、このような由縁が有って観音信者となり各地の勢力のある豪族に有力な寺院を推挙させ隆盛させた。また、源実朝の時代にい至ってから、札所として整備されてきたようである。 アクセスはJR横須賀線で逗子駅東口でおりてロータリーを右に進み、商店街をそのまま歩くと池田通り交差点、これを右に進むとjJR横須賀線の踏み切りに当たる。道なりに進み、右側に「坂東三十三観音霊場 2番岩殿寺」の案内看板が有る路地に出たら、右に入り道なりに進み途中の案内看板で左に行くと、右に赤い旗が見えてくる。右側の三十三箇所のご本尊石仏を見ながら進んだ行き止まりが岩殿寺である。 毎回来ても、この境内高台の観音堂までは、息が荒く弾んで汗も出るほどきつい階段だ。総門を入って急な石段を登ると弘法大師作と伝承される、「爪掘り地蔵」がある。私が足蹴無く通う伊勢原市大山の不動寺にもこの岩殿寺地蔵より大きめな「爪堀り地蔵」が伝承されてきて安置されている。 この地蔵菩薩が今回の「関東百八地蔵霊場」の八十九番札所の「爪堀り地蔵」である。この地蔵菩薩は弘法大師が東国巡鍚のおり、この地で手足の病で苦しんでいた信者の為、大師自ら爪で地蔵尊を掘られ救ったと伝えられ、この名がある。爾来、手足の爪に効験ありとして全国に知れるようになった。参道の脇にある「享保の子育地蔵尊」は、安産、子育て...
Read more坂東観音霊場第二番札所海雲山岩殿寺にお詣りします。横須賀線を逗子駅で降り鎌倉方向に戻ります。県道205号線は道幅が狭く歩道がなく、車は飛ばしてくるので歩くのが怖いです。途中の案内板に従い裏道に入りほっと一息つきます。参道には西国及び坂東霊場の巡礼歌碑や写し札所の観音さまが並んでいますので拝しながら進みます。山門に箱が置いてあり拝観料を納めます。坂東札所には真言宗、天台宗のお寺が多く、曹洞宗のお寺はここ1寺だけです。人の気配はありません。急な階段を息せき切って上ると、途中に弘法大師が爪で彫られたとの言い伝えの残る爪堀地蔵尊が祀られていて拝みます。長い歳月により摩耗していますが、綺麗に清掃され、お花が供えられて人々から篤く信仰されていることが分かるお地蔵さまでした。階段で振り返れば逗子の街並みとその先に海が見え広々と空が開けます。 階段の上の観音堂から男性の朗々とした般若心経の読経の声が聞こえます。その方はすぐに降りて行ってしまい境内には私一人残されました。 観音堂は堅く閉ざされていて観音さまのお姿を拝見することはできません。(岩殿寺のご本尊は十一面観世音菩薩で1月18日が御開帳日とのことです。)お賽銭も戸のすき間から入れて、般若心経をたどたどしく読み父母の頓証菩提と家族の健康を願いました。 観音堂の裏手に回ると行基菩薩の彫刻とされる観音菩薩像が洞窟の中にあり、長い歳月人々の願いを聞いてこられたであろうお姿がうかがえました。1メートル弱の高さの石造りの十一面観音さまでふっくらとした優しいお顔のように拝見しました。横手には泉鏡花が寄進したという鏡花の池があり、小さな池に可愛らしい灯篭が立っており、明治の文豪と当山のご住職との親交が篤かったことが窺えます。...
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