この東昌寺はあの北条滅亡の舞台となった鎌倉・東勝寺の写し。
鎌倉東勝寺は北条氏の菩提寺であり砦の役割も果たしていた。1333年、新田義貞に追い詰められた北条高時以下一族800余人が自刀、東勝寺は炎上・焼け落ちてその場所は今も空き地のままだが(北条高時腹切りやぐらとかがあって怖くて何も建てられない)、当時の住職であった信海和尚が本尊の大日如来像を持ち出してここ池子村まで逃げ落ちて東勝寺を再建した。江戸時代に入ると池子は水戸徳川家直轄、英勝寺配下になったので寺名の「勝」の字を「昌」の字に改めて現在に至っている。
敷地内にある阿弥陀堂には元々北条政子が三代将軍源実朝の菩提を弔うために運慶に作らせた丈六阿弥陀如来像が納められて、かつては池子阿弥陀ヶ谷 (現在の逗子高校の辺り)にあったとのことだが英勝寺からの通達で東昌寺に移築された。享保12年(1727年)に火災に遇い、本堂と共に阿弥陀堂も運慶の阿弥陀如来も焼失している。余計なことをしてくれたものである。現在のものは1756年(宝暦6年)に扇ヶ谷の仏師三橋宮内忠之によって造られたもの。
やはり敷地内にある石造五輪塔は鎌倉時代の武将の二階堂行然の墓で国指定の重要文化財。「乾元二年(寛元2年、1244年)癸卯...
Read moreBeautiful grounds and always a pleasure to visit. I especially love the hydrangeas here. Everyone is very kind and welcoming. Some English spoken much...
Read more今日(2023.02.18)は、京急神武寺駅から程近い東昌寺をご紹介させて頂きます 今から約650年前、北条高時一族が鎌倉葛西ヶ谷の東勝寺に逃げ込み、寺を焼き、何百人もの一族が自害して鎌倉幕府は滅びました このときに信海和尚が本尊を火の中から救いだし、池子の郷に持ってきて東勝寺を再建した言い伝えがあります 寛永14年(1637)に池子村が鎌倉扇ガ谷英勝寺の領地となった時、領主水戸家に遠慮して東昌寺としたといいます 境内の阿弥陀堂には、丈六阿弥陀如来像(身の丈約5メートル)があります この像は、源実朝の死を悲しんで、母の北条政子が仏師運慶に阿弥陀如来像を彫らせたもので、当初は阿弥陀ヶ谷戸(県立逗子高校の奥)にお堂を建てて祀らせたという語り伝えがあります 江戸時代に東昌寺に移されましたが、その後、阿弥陀堂は焼けて、運慶作の像も失われていましました いま有るのは宝暦6年(1756)に再建されたものです また、境内には鎌倉時代の乾元2年(1303)の銘をもつ五輪塔があり、年代と型式がはっきりした石塔として国の重要...
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