曹洞宗の寺 曹洞宗の思想に従い、方便を超えた仏像、装飾はない。 ここには以仁王 源頼政の乱で宇治川を「馬筏」で渡り(平家物語 橋合戦)功績を立てた藤原姓足利一族の墓地がある。(後に室町幕府を開く足利一族は源姓で系譜が異なる)足利一族滅亡は道元禅師様の生前であるため、時代が下って作成されたものである。 平家物語では、”宇治川先陣”で秩父党(”橋合戦”に記述)の頭領畠山重忠が足利一族を例にあげて源義経に意見している。緻密な配慮と構成に平家物語凄さを感じずにはいられない。 時代は下って かつて足利を収めた長尾氏の墓は小高いところにあり足利を一望できる。
曹洞宗が現在まで継承されるのは瑩山禅師様の功績が極めて大きい。瑩山禅師様無くしては道元禅師様の言葉は残らなかったであろう。
一般に曹洞宗では開経偈、懺悔文、三帰礼文を経て般若心経を唱え本尊上供回向するが、その般若心経はサンスクリットの原典と比較すると過不足の項目がある。原典が世界中を探しても法隆寺にしかなかったため、検証されなかったのかも知れない。数学や論理学にご精通な方ならばお気づきになると思うが(漢語に詳しくないので理論式で書きます)原典には記載されている
空でない⇒色でない (注 ⇒:ならば)
と言う項目が抜けています。般若心経は鳩摩羅什訳、玄奘法師訳が有名(殆どが玄奘訳を使用しています)ですが、どちらも漢訳されていません。 鳩摩羅什は学者であって自己の判断で重複表記であるため意図的に抜いたと思いますが、僧侶であり、三蔵を極め、サンスクリット語にも詳しい玄奘法師が何故省略したのは長く疑問でした。 最近思うところ、後訳の玄奘法師は篤実な性格故に鳩摩羅什への謙譲と敬意を込めて内容を変えずに訳したものでないかと考察する。(仮説が正しいとすれば、ダーウィンやアインシュタインに聞かせたい話である)もし、玄奘法師が原典通りに訳したならば、多大な功績を残した鳩摩羅什の功績に泥を塗ることになり、それは本意ではないと考えたのではないだろうか。(天竺より帰国後、仏のような扱いを受けていた玄奘法師は、自分の一挙手一投足が多大な影響力を与えることを鑑み憚りがあったのかもしれない)
道元禅師様の言葉に 瓦を磨いて鏡とする故事に 「塼(瓦)もし鏡とならずば、人ほとけになるべからず」 とあり、諸仏諸祖の受持し単伝を映す鏡は同参同証するものである。 「磨塼の鏡となるとき作仏す」 塼来塼現の鏡子あり、鏡来鏡現の鏡子があることを 牆壁瓦礫にてある仏心あり。
訳抜けの疑問は仏道に対して無意味な執着であったようである。
最後に 「欲得恁麽事」の方以外は興味の無い話ではあるが、この寺の名前「心通院」は興味深い設定である。仏教に於いて「心」(フリダヤ)の要素は重要で、道元禅師様の「正法眼蔵」にも同じ事象で「心不可得」なる題目が2回記された上に、時を経て「他心通」なる再編され、計3回の記述がある。この寺は当家の菩提寺であり、この世の修行を終えた後世話になる身であるが、自己にある「心は壁と共存する」なる...
Read more栃木県 足利市 本城 に境内を構える、心通院、2024 に足利七福神霊場 巡礼にて参拝致しました、足利地方は歴史在る建物が多く所在しており 寺院も見所在ります、寺院対応も大変良い寺院が大半でした、心通院様は参拝、朱印等の対応はしない寺院でスタンプのみで締切って下り、オープンな寺院では無い様です、境内は綺麗でしたが行きずらい寺院に感じました、 どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 大圓山、院号は 心通院、宗旨 宗派は 曹洞宗、ご本尊は 釈迦牟尼佛、足利七福神霊場 寿老人、開山は 学英宗益 大和尚、開創年は 永禄9年(1566年)足利長尾の五代政長が両親 憲長夫妻菩提のために、西宮町長林寺の七世学英宗益大和尚を開山として創建されました。足利七福神めぐりの社寺の一つでもあり、長寿、富貴、招福の寿老人を祀るお寺です。また、安産子育延命地蔵菩薩、ぼけ除け観音菩薩が祀られ、広く信仰されています。 長尾氏概略は、足利長尾氏は白井長尾氏・総社長尾氏と同じく鎌倉長尾氏から分れました。1465年8代将軍足利義政から長尾景人(山内上杉氏家臣)が足利荘の代官に任命され、1466年足利荘に入りました。ここから足利長尾氏が始まります。景人が岩井山城(勧農城)に入った当時は、山内上杉氏(※1)・扇谷上杉氏(※2)・幕府と古河公方(※3)が対立した享徳の乱の最中でした。景人は山内上杉氏の家臣であることから、山内上杉氏が足利に拠点を築いたことになります。3代景長の時に、足利城を本城としました。5代政長の時には、足利城・館林城の城主になりました。 豊臣秀吉による小田原征伐では北条氏に従って迎え、1590年6代顕長は城地を没収されて足利長尾氏は滅びました。足利長尾氏墓所 足利長尾氏5代政長が両親の菩提を弔うために1566年(永禄9年)心通院を建立しました。心通院境内南西の丘上に安山岩製の宝筐印塔3基が東向きに並んでいます。 長尾憲長夫婦(政長父母)と政長夫婦の墓所があったそうですが、憲長妻の墓は既に無く現存は3基で、左から長政夫人(1578年、天正6年)、憲長(1550年、天文19年)、政長(1569年、永禄12年)の順に並んでいます。歴史的建造物、仏閣、仏像、城、神社巡り、パワースポット、絶景、紅葉、景色撮影、癒し処、栃木県 足利市...
Read more正月で七福神巡りで行きました。寿老人で地蔵堂内で厨子内に祀られています。石像の七福神像も外にあります。 寺は長尾政長の創建で、両親の菩提を弔う為に戦国時代末期です。左手小高い所に墓所が有ります。 後方には両崖山が見え、昔は山頂に山城が有りました。(絵では三層の櫓が描かれている)車で行けず歩きで40分~1時間程で、生きづらいです。寺は古い墓石がたくさんあるので、城を守っていた方のかも! 寺は曹洞宗の大圓山心通院で、長尾家の菩提寺・(西宮)長林寺関連の寺です。 長尾家の墓...
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