現在(2022年)あわら市吉崎は福井県の最北端に位置した自然豊かな場所です。また隣接する石川県加賀市吉崎もあり、こちらを加賀吉崎と呼んでいます。両県にまたがる土地を持っている家もあります。90年程前には役場、小学校、駐在所、医院、薬局、醬油店、酒造店、菓子屋、魚屋、旅館、売店、映画館、民宿、質屋などがありました。今でもこれらのいくつかが残ってます。そして寺院については令和4年現在、本願寺吉崎別院(西別院)、真宗大谷派吉崎東別院(東別院)、吉崎寺(本願寺派)、元願慶寺、すぐとなりの浜坂に照順寺(本願寺派)、加賀吉崎の名願寺(大谷派)があります。 その他にも関連する施設として蓮如上人記念館、親鸞会、県境の館があります。
一見すると東西別院の一帯が蓮如上人の旧跡のように思われますが、実際は延宝5年(1677)幕府の裁きによって千歳山(御山)の旧跡地を外して別院が建てられております。このことは、吉崎別院の建立とほぼ同じ時代に山科本願寺跡(京都)の広大な敷地を外して、山科東西別院が建てられたのと同じ考えです。そして蓮如上人が吉崎に来られた時の吉崎地方一帯の名主大家彦左衛門吉久の館が前進の吉崎寺であり、蓮如上人の絵伝に基づき本堂、宝物館の柱を朱色にしてあります。550年前には全国から集まって来た僧侶方も蓮如上人が帰られると引き上げて行き、地元の吉崎の方々をはじめ、吉崎寺だけが蓮如上人の時代から今まで続いています。”吉崎御坊”というのがどこからか分からない方もいらっしゃるかと思います。御坊と言うのは元来高僧の居られる寺の敬称でした。本願寺が東西に分かれてから全国各地に別院を作り、門信徒が西御坊、東御坊と呼ぶ習慣ができました。吉崎にも西御坊、東御坊はありますが、蓮如上人と直接の関係はなく、山頂の蓮如上人の本坊跡地としての御坊跡と吉崎へ来られた時に布教の場とされた吉久の館(現在の吉崎寺)を指します。今では蓮如上人の関係する吉崎一帯を”吉崎御坊”と呼んでおります。千歳山(御山)の本堂跡地に建つ高さ12メートルの蓮如上人銅像は吉崎寺の御自画像をもとに、彫刻家の「高村光雲」氏が製作したものです。
いったいなぜこれほど寺院があるのか、そしてなぜこの吉崎が”吉崎御坊”と言われているのかこの550年の歴史と共にこれから簡単ではありますが”吉崎御坊”について説明致します。蓮如上人については次の「蓮如上人について」で詳しく述べてありますのでそちらをご覧ください。そしてここからは蓮如上人の呼称を地元では親しみを込めて「蓮如さん」とお呼びしておりますので、それにちなみ「蓮如さん」とお書きします。 蓮如さんが吉崎へお越しになる文明3年(1471)5月の少し前、この頃は応仁の乱が始まり、戦乱によって幕府の権威は落ち、国が大きく乱れました。蓮如さんは都から遠い地で本願寺教団を再興しようと考えられ、越前国(福井県)の北端にある吉崎を拠点として北陸の各地を歩かれ、4年余りの間に飛躍的に信者の数が増え、本願寺の寺院門徒も増えていきました。なぜ吉崎を選ばれたのかはいくつか理由があります。蓮如さんの吉崎進出は自ら記した「なにとなくふとしのびいで」(御文章、御文)たというようなものではなく、極めて計画的で慎重に考えての行動であり、衝動的や気分屋などというものから最も縁遠い性格であったに違いなく、軽い表現で言うのは蓮如さん一流の美学であろうと思われます。そしてこの文明3年(1471)の吉崎は戦乱の中でも耐えられる要害の地であり、水陸交通の便が良く、今でも景色がとても良いなども選ぶ理由となりました。蓮如さんの血縁である奈良興福寺大乗院門跡経覚の所領が吉崎にあり、大家彦左衛門吉久の領地となっていたため、吉崎の名主吉久と連絡を取り吉崎にお迎えしました。吉久の館で布教され毎日信者の数が増え、入りきれなくなったため吉久の所有している千歳山(御山)約一万坪を蓮如さんに寄進して、山頂を整地し、蓮如さんの本坊と弟子達の多屋と、信者の家を建てこの外周に濠を掘って外敵にそなえ、国内で初めてとなる寺内町を作られました。吉崎には商人達も集まってきて、宗教都市が実現しました。大家彦左衛門吉久は蓮如さんに帰依し、法名を慶聞坊(きょうもんぼう)と称し、側近の弟子に加わりました。現在の吉崎寺の開基であります。吉崎は全国各地から集まってくる人達を制限しなければいけないほど、にぎわいました。文明6年(1474)3月21日お婆さんが吉崎から帰ってくる嫁を脅した嫁おどしの事件が起こり、蓮如さんより後世の戒めにと「嫁おどし肉附面」(にくづきめん)は吉久(慶聞坊)が賜り、その肉附面は現在でも吉久の子孫の吉崎寺にて大切に所蔵しています。事件から数日後の文明6年3月28日夕南大門付近の多屋から出火し、本堂を全焼する大火になり沢山の建物や、書物が燃えました。大火のもといち早く駆けつけた吉久は蓮如さんを背負い七曲り下り(下山)浜坂の照順ヶ浦の安全な場ヶ所まで非難しました。吉久が蓮如さんを背負って避難する模様を描いた「吉崎山上火難の図」を基にこの時の御二人の姿を再現した銅像は吉崎寺本堂前にあり、吉崎寺保存会の会員150人や全国の信者代表らが中心となって建立しました。そしてその火災の時に本光坊了顕がお腹をかき斬って聖教を守った「腹籠りの聖教」は本山(西本願寺)に、また山上の「御花松旧跡」東側に本光坊了顕の墓標が建てられています。この他にも蓮如さんの布教にまつわる伝説や伝承が多いので、その一端にふれておきます。吉崎旧道の「のこぎり坂」に伝わる白鹿の道案内や、切りとられた松の枝を蓮如さんが土に差したところ、それが根づいたというお花松の伝説、粽(ちまき)の皮の笹が根づいて芽をふいたという伝説(加賀市動橋)、越前・加賀の各地に数多く見受ける蓮如さんの巡錫を物語る石碑や石柱の類等々、多くがあります。このように今日、真宗大国と呼ばれる越前(福井県)や加賀(石川県)には、蓮如さんの吉崎布教にまつわる伝説や伝承が多いです。これら全て「吉崎道場」で布教に挻身した蓮如さん、その方に由縁して醸成されたものであります。蓮如さんが吉崎で実行されたことについては詳しく「蓮如上人について」で述べておりますので、そちらをご覧ください。文明7年(1475)の秋、蓮如さんが吉崎を御退去の時も吉久(慶聞坊)は若狭の小浜まで御伴し、その際形見に「松掛けの名号」(北陸筆止めの六字名号)を頂いて吉崎に戻り、子孫が代々道場を守りました。蓮如さんが吉崎にお越しから退去までのわずか4年の間で吉崎を中心に北陸地方が大きな変化を遂げました。そして今550年が経過したもののその名残など少しは形を変わろうとも寺院、真宗門徒をはじめ吉崎住民が一丸となり、守り続け残されています。
延宝5年(1677)東西両派の千歳山上(御山)争論の結果、山上は幕府の直轄地となり、吉崎寺の前身(大家道場、山下(サンゲノ)道場、吉崎道場、松庭(ショウテイ)道場などと称す)が現在の吉崎西別院の機能をはたして、吉久の子孫が代々その留守居(別院輪番)を務めました。元文3年(1737)当時11代目松庭(吉久の子孫)が留守居の時に千歳山(御山)の中腹に御堂を建立しました。その御堂が現在の吉崎西別院の本堂になります。その10年後の延享四年(1747)に吉崎東別院を建立しました。吉崎東別院会館は1997年12月10日に竣工され、現在も広く御門徒や青少年教化などにも利用できる宿泊研修施設として活用されています。
江戸時代以降吉崎の行事として4月に蓮如忌が行われ、地元では昔から御忌(ぎょき)と言い伝えられております。東西分派後大谷派の寺院がなかったため、真宗大谷派の本山(真宗本廟)が蓮如さんの絵像を預かり年に1度地元吉崎へ返します、との事で10日間にわたり蓮如さんの御苦労を偲び歩いて京都の本山から吉崎へ御戻りになられます。蓮如さんが吉崎に戻られ東別院下から本堂までの階段67段(2022)を地元の吉崎浜坂消防団が皆様の想いを乗せ一気に駆け上がる姿は緊迫した空気の中でも、見応えがあります。現在でも多くの方々が「蓮如さんが戻られた、吉崎に帰ってきた」と涙を流すなど心から蓮如さんの御帰りを待つ方がいらっしゃる光景を目にしますと、どれだけこの地元の方々に蓮如さんが愛されていたかが伝わります。現在では自動車や公共交通機関が発達しているため京都から吉崎までは余り遠く感じられませんが、数十年前まではまだ整地された道はなく山を越え谷を越え命がけで全国各地よりお参りの方がこの吉崎にお越しになられました。今でも蓮如忌(御忌)の期間は東西別院下に屋台が並び賑わいを魅せています。この伝統ある御仏事(御影道中)は300年以上、コロナ化での規模縮小などはありますが、毎年絶えることなく今日まで引き継がれています。
走り書きのため理解し難い部分も多いと思われます。是非一度「吉崎」へお参り頂き地元の方や寺院に詳しくお話を聞いたり、ご自身でごゆっくりと御参拝下さい。吉崎へお越しの方は蓮如さんのコースをたどり、御山(松林の公園)に登って蓮如さんのご苦労と繁栄ぶりを頭に描きながら日本海や北潟湖に浮かぶ天然記念物の鹿島の森を眺め、また芦原ゴルフ場の方向には西行法師が歌を詠まれた塩越しの松があったことなども思い出して下さい。2023年には吉崎に「道の駅」が完成予定です。皆様にお会いできる日...
Read more小さい頃漫画で読んだ肉付面を見に行きました。 受付の元気なおばあさんがずっとつきっきりで説明をしてくれました。 肉付面はお面の前の床に立つと簾があがってお面が表れるようになっています。 うちも浄土真宗と伝えると、話が盛り上がりました。 吉崎御坊への行き方も丁寧に教えてもらいました。 蓮如上人像は高村光雲作の...
Read moreかなりご高齢のおばあさまが、丁寧に解説してくださいました。浄土真宗の歴史や、蓮如さんが吉崎に来た経緯などわかりやすかったです。 あと、肉付きの面が見られるのですが、指定の場所に立つとカーテンが自動で上がって面が出てくるシ...
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