四国霊場29番札所(土佐)「国分寺」は、高知県南国市の田園地帯の中に建っているお寺です。 境内はフラットで、土佐の国の国分寺というだけあって素晴らしいお寺ですが、境内の鐘は当寺の住職が時報として定時に打つので、我々は一切打つことができない🔔😥 法燈1200年余年。こんもりと緑繁静閑な森の中、悠久の歴史を抱いて、土佐国分寺はたたずんでいます。 「諸国で最も良い土地を選んで建てよ。」という45代聖武天皇の勅願(みことのり)によって、高僧行基(西暦668~748年)が天平13年(西暦741年)に創建しました。天皇自らが金光明最勝王経を書写して納められ、天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽を願う祈願所として、金光明四天王護国之寺とも呼ばれてきました。 後に弘法大師(空海 西暦774~835年)が真言宗の寺として中興し、四国八十八ケ所巡りの第二十九番霊場となり、お遍路さんの鈴の音は絶えません。 土佐日記の作者、紀貫之(西暦868~945?年)が国司として4年間滞在した国府の地としても知られています。歴代天皇の尊信厚く外護され、のち長宗我部国主、山内藩主より寺領が与えられ代々伽藍の維持が計られて参りました。 大正11年には、往時を偲ぶ土壇が残っていることから、境内地全域が史蹟として国の文化財指定を受けました。 また、昭和52年から行われた境内の発掘調査により弥生時代の住居跡が発見され、ここが土佐文化発生の礎となった土地であることも判明しました。 ここを過ぎると、次の30番札所まではほぼ平坦な道のりでほぼ田園地...
Read more周りが田んぼの広々としたお寺さんです。 境内も広く綺麗な日本庭園みたいでした。
【国分寺の歴史・由来】 土佐の国分寺といえば、平安中期の歌人、紀貫之(868〜945頃)が浮かんでくる。とくに貫之が著した『土佐日記』は、女性の筆に託して書かれた仮名日記であることはあまりにも有名であるし、貫之が国司として4年間滞在した国府は、国分寺から北東1kmほどの近くで「土佐のまほろば」と呼ばれ、土佐の政治・文化の中心であった。 聖武天皇(在位724〜49)が『金光明最勝王経』を書写して納め、全国68ヶ所に国分寺を建立したのは天平13年のころ。土佐では行基菩薩が開山し、天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽をねがう祈願所として開創された。歴代天皇からの尊信が厚く、加護をうけてきた。 縁起によると、弘法大師がこの地を巡錫したのは弘仁6年(815)のころで、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置された。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。以来、土佐国分寺は「星供の根本道場」となっている。
本尊千手観世音菩薩を祀る国分寺の本堂(金堂)は、長宗我部元親が、永禄元年に再建。柿葺き、寄棟造りで外観は天平様式を伝え、内部の海老紅梁は土佐最古といわれ、室町時代の特色が見られて国の重要文化財に指定されている。また、仁王門は明暦元年(1655)、土佐2代藩主・山内忠義公の寄進で豪壮な二層造りである。1250年余の面影を残す境内地は、全域が国の史蹟に指定され、杉苔が美しい庭園で「土佐の苔寺」とも...
Read more四国八十八ヵ所霊場の参拝でお伺いしました。 真言宗智山派のお寺で摩尼山宝蔵院国分寺といい、霊場第二十九番札所になります。 御本尊は行基菩薩が刻んだ千手観世音菩薩になります、本尊の横に祀られている薬師如来二体は平安後期と鎌倉時代の作で、ともに国の重要文化財に指定されています。 天平十三年(年741)聖武天皇が「金光明最勝王経」を書写して納め全国六十八ケ所に国分寺を建立した、土佐では行基菩薩が開山し祈願所として開創され歴代天皇からの尊信が篤く加護を受けてきた。 弘仁六年(815年)弘法大師がこの地を巡錫し毘沙門天像を彫造して奥之院に安置しその際に御本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修められた。 国分寺の本堂は長宗我部国親・元親親子が永禄元年(1558年)に再建した天平様式を模した寄棟造で屋根は椹の木の柿葺で国の重要文化財になっています、こちらも国の重要文化財に指定されています。 梵鐘はお寺の創建当時の建築物で、仁王門は明暦元年(1655年)に土佐藩二代目藩主山内忠義公の寄進で建立された二層造りの門です。 お寺のある辺りは土佐日記で知られる紀貫之が土佐国司として四年間赴任し、邸宅として使用していた跡が近くにあり当時はこの地が土佐の国の中心地であったそうです。 土佐日記には、国分寺の住職(講師と表記されています)との交流...
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