I didn't know about this shrine beforehand, just stumbled upon it while photographing the nearby cherry tree. The rustic shrine gate leads through a street of old homes to a shrine set among towering cedars. Very atmospheric and spiritually charged, with very few other people around. Be sure to walk around the side and look for the demon face under...
Read more弘仁13(822)宇佐神宮または石清水八幡宮の分霊を勅命によって勧請したのが武田八幡宮の始まりです。
また、空海の夢の中で八幡大菩薩が武田郷に出現したため神祠を構えたのを起源ともいわれます。
武田とは古くからのこの地の名で、その起源は第11代垂仁天皇の御子・日本武尊の子にあたる武田王(たけだのきみ)がこの地に御殿を設けたことという逸話になります。
武田王は御殿の北東の祠を館内に移して祀ったのが武田武大神の起源で、現在の武田八幡宮にあたり、御殿は南西にあったといわれ、武田王が薨去して葬られたところは王仁塚と呼ばれ、現在のわに塚桜が咲き誇っている地です。
第56代清和天皇の頃に奉幣と社領の寄進が行なわれ、武田信義が武田八幡宮を氏神とし、社頭の再建などを行ないました。
武田信義は平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で甲斐源氏4代当主、武田氏初代当主です。
大治3年(1128)8月15日に生まれ、13歳で武田八幡宮にて元服しこれ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となりました。
治承4年(1180)4月頃、以仁王の令旨を賜り、8月下旬に挙兵したといわれます。
富士川の戦いの直後や平氏の北陸出兵の際の追討宣旨の追討対象者に記され朝廷からも留意されるべき人物であった。
東国では源頼朝、武田信義、源義仲が武家の棟梁として並立した時期が続き、源頼朝が他家の排斥に乗り出しました。
源義仲と源頼朝が対立すると、信義や甲斐源氏は頼朝と協調路線を図り、武田軍は源範頼、源義経とともに義仲の追討、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦い等に参加しました。
源義仲が滅びると源頼朝の次の標的は甲斐源氏率いる武田信義となりました。
元暦元年(1184)4月24日、武田信義の子・一条忠頼が鎌倉の宴席で暗殺され、その後、頼朝は甲斐・信濃に出兵し、頼朝らと同格だった甲斐源氏は鎌倉殿の御家人となりました。
文治2年(1186)3月9日、享年59で病没したといわれていますが、その詳細は不明で、武田八幡宮近くの願成寺(韮崎市)に墓があります。
天文10年12月23日(1542年1月19日)に武田信玄は武田八幡宮を再建したといいます。
天正10年2月19日(1582年3月23日)、織田信長の甲州征伐に際し、武田勝頼の妻・北条夫人が勝頼の武運を祈って祈願文を捧げたといわれ、この祈願文は現在、県指定の有...
Read more武田八幡宮の駐車場へ車を停めた。釜無川右岸の韮崎辺りの河岸段丘の最上部、山の麓に社殿はある。八幡宮正面石垣付近から釜無川方面を望むと参道がなだらかに傾斜して下がっているのが分かる。 さて、甲斐源氏及び甲斐武田氏起源を訪ねる旅も終焉を迎えつつある。ここ武田八幡宮は甲斐武田氏の起源であろう。武田八幡宮は弘仁十三年(822)に勅命によって九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、地神の武田武大神と併祀したのが始まりである。甲斐源氏三代源(逸見)清光の次男信義(甲斐源氏四代、幼名は龍光丸)は、ここ武田八幡宮で元服を行い武田太郎信義と名乗ったと云われている。つまり初代甲斐武田氏の発祥の地である。 但し、一般的には“武田”の名乗りは、甲斐源氏二代義清が常陸国那賀郡武田郷に領地を得たとき“武田冠者”と称して始まったと云われている。私は、これはこれで良しとして、甲斐武田氏の初代は信義だと考えるのが妥当だと思う。それにしても「武田」の庄が甲斐にも在ったとは?・・・何と!
武田八幡宮は歴史の深さを感じる趣のある社である。特に正面の石垣や石鳥居、随神門は神聖で重厚感があり圧倒されるものがある。天正十年(1582)新府城に居た武田勝頼公夫人が織田信長の甲斐侵攻時に武田氏の武運を祈願して奉納したという願文の碑も興味深いものである。また、武田八幡宮本殿の左脇にある摂社、若宮八幡宮本殿(小建築)にも注目したい。社記によれば、承久二年(1220)に武田信義の弟である加賀美遠光によって造営されたと伝えられていて、これは、八幡宮の二之鳥居を加賀美遠光が修復したのと同時期である。 因みに、源頼朝は、武田信義を自分の対抗勢力として警戒し排除したが、逆に弟の加賀美遠光は厚遇し、甲斐源氏の分裂を謀ったとされる。蛇足になるが、武田晴信(信玄)に繋がるのは頼朝に接近した義信の四男(石和)信光であり、信義長男(一条)忠頼は頼朝に謀殺されている。参考までに願成寺にある説明...
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