大阪府の地名2「高石神社」から抜粋です。「延喜式」神名帳大鳥郡の「高石(タカシノ・タカイハ)神社」に比定される。また、正応2年(1289)書写という「和泉国神名帳」には、従五位上の神階を持つ「中高石社」「高石大歳社」「高石倉立社」がみえるが、いずれが当社をさすか不明。現在の祭神は少彦明神・天照皇大神・熊野坐三社。旧郷社。俗に天神社ともいう。(中略)三条西実隆は、大永4年(1524)4月26日、高野参詣の帰途当社に立ち寄っており、「高野参詣日記」に「髙師浜の松原の下、天神の社の前に輿をたてて」と前書きし、「袖のうへに松吹風やあたなみのたかしの浜のなをも立らん」の歌を載せる。紀州街道に面していたため、こうした参詣者も多かったと思われる。(中略)江戸時代には岸和田藩主岡部氏の崇敬があつかったという。元禄7年(1694)の高石南村明細帳(村田家文書)によれば、当社は高石北・同南両村立会で、祭礼は年に五度あり、7月15日には船乗りたちの願成就のお礼相撲、9月9日には大坂から翁、泉郡舞村(現和泉市)から舞太夫2人が来て舞があった。
また、同書「高石」には、(前略)平安末より鎌倉期の高石は、国衙領であるとともに和泉一宮大鳥神社の神領(祓戸・供菜浦)であった。(中略)「葦田」の小字が密集する芦田川下流域を南限とする海浜であり、高磯浦(浜弐浦のひとつ)は、芦田川の河口を北限に、「高石正里」に鎮座する高石神社を中心とした海浜であったと思われる。(中略)室町期の高石地区は、高野山宝性院領であった。高石と高野山の関係は、鎌倉末期より南北朝期に高野山学頭職を勤め、貞和3年死去した宝性院玄海(俗姓高志氏)を媒介とするものであるところは明かである。(中略)なお、戦国期より近世初頭にかけて堺で活躍する会合衆のなかに、高石(高瀬)屋を名乗る宗好・宗兵衛・助一郎(卜意)らがおり、高石氏ないし高石地区の国人の出身と考えられる。、とあります。
現在は、高石駅前で行われる町会の連合の地車が、この神社を中心に催されて、祭礼当日は大変賑わうようです。 訪ねてみて、個人的に感じるのは、そういう由緒深い、地域の中心たる神社なのですが、ちょっと...
Read more高石神社(たかいしじんじゃ)。大阪府高石市高師浜。
式内社(小)、旧郷社。
主祭神:少名彦名命 天照大神...
Read more高石神社
たかしのじんじゃ
たかいしじんじゃとも
大阪府高石市高師浜4丁目1‐19
主祭神
少名彦名命 天照大神
式内社
高石は半島からの 渡来人が住み高志(こし) と名乗った
高志が高師とか高石に 変わっていったとの 説が有力
堺市を含むいわゆる 泉州地方には渡来系の 人々が住んだ地域が 多く、関連した神社も たくさん
神社は往時浜辺に近く 数々の名歌に歌われて いる
潮騒くらい聞けるかなと 思いながら参詣したが 間に巨大なコンビナートが 入り浜辺のイメージは 全くなかった
境内は9月の台風(関空橋に船舶が 激突したもの)の...
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