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Kashiigu — Attraction in Fukuoka

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Kashiigu
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ほっこり絶品中華 宇宙軒 昭和31年創業
Japan, 〒813-0011 Fukuoka, Higashi Ward, Kashii, 4 Chome−15−18 こもれびテラス宙(そら
Kokoroan
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魚鶏野 くう・喰
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九州名物 とめ手羽 香椎店 (TOMETEBA・토메테바)
Japan, 〒813-0044 Fukuoka, Higashi Ward, Chihaya, 5 Chome−12−10 荒津ビル 1F
Mawali Ghar
Japan, 〒813-0013 Fukuoka, Higashi Ward, Kashii Ekimae, 1 Chome−1−3 阿部ビル
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Kashiigu tourism.Kashiigu hotels.Kashiigu bed and breakfast. flights to Kashiigu.Kashiigu attractions.Kashiigu restaurants.Kashiigu travel.Kashiigu travel guide.Kashiigu travel blog.Kashiigu pictures.Kashiigu photos.Kashiigu travel tips.Kashiigu maps.Kashiigu things to do.
Kashiigu things to do, attractions, restaurants, events info and trip planning
Kashiigu
JapanFukuoka PrefectureFukuokaKashiigu

Basic Info

Kashiigu

4 Chome-16-1 Kashii, Higashi Ward, Fukuoka, 813-0011, Japan
4.4(1.2K)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Cultural
Outdoor
Scenic
Family friendly
attractions: , restaurants: ほっこり絶品中華 宇宙軒 昭和31年創業, Kokoroan, Sushitomo, 魚鶏野 くう・喰, 創作 ARIKADO, Motsumaru Kashii, Gelato Naturale, リストランテ・ア・ドマーニ, 九州名物 とめ手羽 香椎店 (TOMETEBA・토메테바), Mawali Ghar
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Tue, Dec 30 • 10:00 AM
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Tue, Dec 30 • 6:00 PM
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ほっこり絶品中華 宇宙軒 昭和31年創業

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Sushitomo

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九州名物 とめ手羽 香椎店 (TOMETEBA・토메테바)

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ほっこり絶品中華 宇宙軒 昭和31年創業

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4.0

(209)

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4.5

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4.4

(140)

$$

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魚鶏野 くう・喰

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Reviews of Kashiigu

4.4
(1,235)
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5.0
6y

香椎宮は嘗て「香椎廟」と称した特異な社で、仲哀天皇の殯(200年)に始まる古社であるのに、延喜式には見えない。「香椎」の語源も、当社古宮の伝承に拠ると、仲哀天皇の棺を持たせかけた椎木が香ったからという。日本書紀は「香椎」とはせず「橿日」とする。

(仲哀天皇八年春正月)己亥、儺縣に到る。因以て橿日宮に居ます。… 九年春二月。足仲彥天皇、筑紫橿日宮に崩る。… (三月)戊子。皇后、熊鷲を擊たむと欲し橿日宮より松峽宮に遷りたまふ。

古事記は「訶志比」とする。

帶中日子天皇、穴門の豐浦宮及ひ筑紫訶志比宮に坐し、天下治むる也。

何れも音を当てただけに見えるし、仲哀天皇が皇居を据えた時から「かしひ」だったように記されている。古宮には神木「椎木」が立つけれど、「橿(樫)」の木もあったのだろうか。 仲哀天皇の殯というのは古事記に拠ると、神功皇后による神託を受け入れず熊襲征伐に固執した仲哀天皇が、その夜のうちに変死したためとする。

其の大后なる息長帶日賣命は、當時神歸りたまふ。故、天皇、筑紫の訶志比宮に坐し、將に熊曾國擊たむの時、天皇御琴控かせられて、建內宿禰大臣を沙庭に居し、神の命請ひまつる。 是に於て、大后に歸りたまふ神、言教り覺し詔ひしは「西方國有り。金銀本より爲て、目之炎と耀く種種の珍しき寶、其の國多に在り。吾今ぞ歸り其の國賜わむ。」 天皇これに答へ白しく「高き地に登り、西の方見るも、國土は見ず、唯大海の有り。」謂ひ神の詐りと爲して、御琴控かず押し退け默し坐せり。 して其の神大きに忿りて詔ふに「凡そ茲なる天下は、汝が知らすに應はざる國。汝は一道向ふ。」 是に於て、建內宿禰大臣白すに「恐し我が天皇、猶ほ其の大御琴あそばせ。」 されば稍に其の御琴取り依せて、なまなまに控き坐せり。故、未だ御琴之音幾久しく聞かずして、卽ち火を擧げて見れば、既に崩り訖んぬ。 して驚き懼れて、殯宮に坐し、更に國之大ぬさ取りて、種種求むは生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚の罪が類ひ、國之大祓と爲して、亦建內宿禰を沙庭に居して、神之命請ひまつる。

日本書紀にも同じような記事、但し殯(もがり)は穴門(下関)豊浦宮で済ませたように書いてある。

竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。

続けて

九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。

と念を押しているので、仲哀天皇が香椎で崩御したのは記紀に共通。お怒りの神は住吉三神だったらしく、古事記では「是、天照大神之御心者。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大神者也。」と神託で名乗る。不思議なことに原註で(此の時、其の三柱大神之御名は顯る也。)という。これが博多に祀る住吉三神であるらしい。

香椎宮は物理的には、大社とするほど広大ではない。まあ周囲は開発され尽くしているので、色々埋まっているかもしれないが。 何も無い頃は、目の前に志賀島が見えた筈で、志賀海神社と行き来してみれば、その近さがわかると思う。仲哀天皇にしてみれば、志賀島を本拠とする安曇族を当てにしたのであろう。でも神功皇后は綿津見三神でなく住吉三神に縋った。 これを政変と見る向きも多いけれど、上代の人々が現代人と同じメンタリティを以て行動した筈もない。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』を読み返すと、人の心というものが神々に代わり、徐々に育ってきた過程がわかる。神功皇后までは、人の意志ではなく神々が、人の行...

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4.0
33w

The jingu is located not far from Hakata station, but it requires a change of trains at Kashii or Chōjabaru station, and the frequency of trains on Umi Line is not frequent in a Sunday afternoon. I visited the jingu at around 17:00 on 4 May 2025, and there were only a few tourists at that time. The complex was tranquil and I enjoyed walking around. There are many cedar trees which are several hundred years old. The place is free to enter, and was well-kept and clean at the...

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5.0
5y

古くは香椎廟と称し香椎宮となったのは明治以降と言う。元々廟として扱われていた為に、普通の神社の生い立ちとは違い古社であるにも関わらず延喜式神名帳に記載が無いなど、奇異な歴史を持つ。 旧社格は官幣大社、現在は勅祭社であり、別表神社に列せられています。主祭神は仲哀天皇、神功皇后で配神は応神天皇(仲哀天皇の御子)と住吉三神。云われによると仲哀天皇は九州平定の為、香椎の地で執務を執られた。その際に住吉大神から新羅を討つようにとの託宣が下ったが、天皇は出兵しなかった為、住吉大神の怒りに触れ崩御してしまう。后の神功皇后は身重でありながら新羅に出兵、住吉大神の御加護により戦わずして新羅を平定。仲哀天皇9年(200年)に仲哀天皇の崩御された香椎の地に祠を建て、神霊を祀ったのが起源とされます。その後元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の御神託により皇后廟も造営する事となり、元亀元年(724年)に竣工した後、二廟を併せて香椎廟と総称する様になったと伝えられています。廟であった為に神階は与えられていません。しかしながら新羅の無礼に対する奉幣が伊勢神宮、大神神社(奈良)、住吉神社(福岡)、宇佐神宮と共に為されたり、仁明天皇即位の奉幣が行われたり、即位、天災、外寇の度に幾度となく奉幣、勅使が行われるなど、神社に近い扱いだったそうです。天元二年(979年)の太政官符によると「大宮司を置く」との記述がある事から平安時代には他の神社と同じ扱いを受ける様になったとの事。またこの頃は九州では宇佐神宮に準ずる扱いを受けたと記されており、事ある毎に宇佐香椎使が遣わされ、伊勢神宮、氣比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所の一つにもなり隆盛を極めました。御祭神が仲哀天皇、神功皇后である事から宇佐神宮の親神様と言われ、また元宮とも言われています。その後社領が大宰府政庁に移されたり、石清水八幡宮に移されたりと変遷を重ね元寇の後は大友氏の支配下になりました。大友氏は背後の立花山に立花山城を築きましたが、島津に攻め落とされその際に社殿を焼失、また豊臣秀吉に社領を没収されたりして一時は荒廃しましたが、小早川隆景が神田寄付と社殿再建をしました(小早川秀秋は再度没収したが)。江戸時代になると黒田氏から崇敬されましたが、寛永14年(1637年)に社殿を焼失。寛永21年(1644年)に黒田忠之により再建、享和元年(1801年)に改築されたのが、現在の社殿となります。社殿は国の重要文化財に指定されています。千鳥破風を正面に持つ入り母屋造の拝殿は左右に車寄せがあり、正面、左右に向拝を設けています。内部は外陣、内陣、内々陣に分かれかつ左右に獅子間一間を設けます。この造りは香椎造と呼ばれ、香椎宮にしかない極めて特徴的な建築です。境内は凛とした空気が漂っており清清しいです。参道の勅使道からも荘厳な雰囲気が伝わってきます。駐車場も広くて無料、またスロープの参道もありバリアフリーになっています。今日は残念ながら甘酒を頂く事は出来ませんでした(時間切れの為)。普段は人が少ないのでゆっくり見てまわる事が出来ます。 (202...

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三文詩人三文詩人
香椎宮は嘗て「香椎廟」と称した特異な社で、仲哀天皇の殯(200年)に始まる古社であるのに、延喜式には見えない。「香椎」の語源も、当社古宮の伝承に拠ると、仲哀天皇の棺を持たせかけた椎木が香ったからという。日本書紀は「香椎」とはせず「橿日」とする。 (仲哀天皇八年春正月)己亥、儺縣に到る。因以て橿日宮に居ます。… 九年春二月。足仲彥天皇、筑紫橿日宮に崩る。… (三月)戊子。皇后、熊鷲を擊たむと欲し橿日宮より松峽宮に遷りたまふ。 古事記は「訶志比」とする。 帶中日子天皇、穴門の豐浦宮及ひ筑紫訶志比宮に坐し、天下治むる也。 何れも音を当てただけに見えるし、仲哀天皇が皇居を据えた時から「かしひ」だったように記されている。古宮には神木「椎木」が立つけれど、「橿(樫)」の木もあったのだろうか。 仲哀天皇の殯というのは古事記に拠ると、神功皇后による神託を受け入れず熊襲征伐に固執した仲哀天皇が、その夜のうちに変死したためとする。 其の大后なる息長帶日賣命は、當時神歸りたまふ。故、天皇、筑紫の訶志比宮に坐し、將に熊曾國擊たむの時、天皇御琴控かせられて、建內宿禰大臣を沙庭に居し、神の命請ひまつる。 是に於て、大后に歸りたまふ神、言教り覺し詔ひしは「西方國有り。金銀本より爲て、目之炎と耀く種種の珍しき寶、其の國多に在り。吾今ぞ歸り其の國賜わむ。」 天皇これに答へ白しく「高き地に登り、西の方見るも、國土は見ず、唯大海の有り。」謂ひ神の詐りと爲して、御琴控かず押し退け默し坐せり。 して其の神大きに忿りて詔ふに「凡そ茲なる天下は、汝が知らすに應はざる國。汝は一道向ふ。」 是に於て、建內宿禰大臣白すに「恐し我が天皇、猶ほ其の大御琴あそばせ。」 されば稍に其の御琴取り依せて、なまなまに控き坐せり。故、未だ御琴之音幾久しく聞かずして、卽ち火を擧げて見れば、既に崩り訖んぬ。 して驚き懼れて、殯宮に坐し、更に國之大ぬさ取りて、種種求むは生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚の罪が類ひ、國之大祓と爲して、亦建內宿禰を沙庭に居して、神之命請ひまつる。 日本書紀にも同じような記事、但し殯(もがり)は穴門(下関)豊浦宮で済ませたように書いてある。 竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。 続けて 九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。 と念を押しているので、仲哀天皇が香椎で崩御したのは記紀に共通。お怒りの神は住吉三神だったらしく、古事記では「是、天照大神之御心者。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大神者也。」と神託で名乗る。不思議なことに原註で(此の時、其の三柱大神之御名は顯る也。)という。これが博多に祀る住吉三神であるらしい。 香椎宮は物理的には、大社とするほど広大ではない。まあ周囲は開発され尽くしているので、色々埋まっているかもしれないが。 何も無い頃は、目の前に志賀島が見えた筈で、志賀海神社と行き来してみれば、その近さがわかると思う。仲哀天皇にしてみれば、志賀島を本拠とする安曇族を当てにしたのであろう。でも神功皇后は綿津見三神でなく住吉三神に縋った。 これを政変と見る向きも多いけれど、上代の人々が現代人と同じメンタリティを以て行動した筈もない。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』を読み返すと、人の心というものが神々に代わり、徐々に育ってきた過程がわかる。神功皇后までは、人の意志ではなく神々が、人の行動を規定したのであろう。
Akira NishiAkira Nishi
古くは香椎廟と称し香椎宮となったのは明治以降と言う。元々廟として扱われていた為に、普通の神社の生い立ちとは違い古社であるにも関わらず延喜式神名帳に記載が無いなど、奇異な歴史を持つ。 旧社格は官幣大社、現在は勅祭社であり、別表神社に列せられています。主祭神は仲哀天皇、神功皇后で配神は応神天皇(仲哀天皇の御子)と住吉三神。云われによると仲哀天皇は九州平定の為、香椎の地で執務を執られた。その際に住吉大神から新羅を討つようにとの託宣が下ったが、天皇は出兵しなかった為、住吉大神の怒りに触れ崩御してしまう。后の神功皇后は身重でありながら新羅に出兵、住吉大神の御加護により戦わずして新羅を平定。仲哀天皇9年(200年)に仲哀天皇の崩御された香椎の地に祠を建て、神霊を祀ったのが起源とされます。その後元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の御神託により皇后廟も造営する事となり、元亀元年(724年)に竣工した後、二廟を併せて香椎廟と総称する様になったと伝えられています。廟であった為に神階は与えられていません。しかしながら新羅の無礼に対する奉幣が伊勢神宮、大神神社(奈良)、住吉神社(福岡)、宇佐神宮と共に為されたり、仁明天皇即位の奉幣が行われたり、即位、天災、外寇の度に幾度となく奉幣、勅使が行われるなど、神社に近い扱いだったそうです。天元二年(979年)の太政官符によると「大宮司を置く」との記述がある事から平安時代には他の神社と同じ扱いを受ける様になったとの事。またこの頃は九州では宇佐神宮に準ずる扱いを受けたと記されており、事ある毎に宇佐香椎使が遣わされ、伊勢神宮、氣比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所の一つにもなり隆盛を極めました。御祭神が仲哀天皇、神功皇后である事から宇佐神宮の親神様と言われ、また元宮とも言われています。その後社領が大宰府政庁に移されたり、石清水八幡宮に移されたりと変遷を重ね元寇の後は大友氏の支配下になりました。大友氏は背後の立花山に立花山城を築きましたが、島津に攻め落とされその際に社殿を焼失、また豊臣秀吉に社領を没収されたりして一時は荒廃しましたが、小早川隆景が神田寄付と社殿再建をしました(小早川秀秋は再度没収したが)。江戸時代になると黒田氏から崇敬されましたが、寛永14年(1637年)に社殿を焼失。寛永21年(1644年)に黒田忠之により再建、享和元年(1801年)に改築されたのが、現在の社殿となります。社殿は国の重要文化財に指定されています。千鳥破風を正面に持つ入り母屋造の拝殿は左右に車寄せがあり、正面、左右に向拝を設けています。内部は外陣、内陣、内々陣に分かれかつ左右に獅子間一間を設けます。この造りは香椎造と呼ばれ、香椎宮にしかない極めて特徴的な建築です。境内は凛とした空気が漂っており清清しいです。参道の勅使道からも荘厳な雰囲気が伝わってきます。駐車場も広くて無料、またスロープの参道もありバリアフリーになっています。今日は残念ながら甘酒を頂く事は出来ませんでした(時間切れの為)。普段は人が少ないのでゆっくり見てまわる事が出来ます。 (2021.04.14情報追加)
Hatsune Kamura (hatchie)Hatsune Kamura (hatchie)
旧社格は最高等級の官幣大社。九州には、宇佐神宮と香椎宮だけです。 全国に十六社しかない勅祭社の一社で、本宮では十年毎に執り行われています。 仲哀天皇(日本武尊の息子)が神功皇后を伴いこの地で一年間治世を行いました。その間は、まさに此処が日本の中心だった訳です。 奥の古宮跡は当時お住まいが在った場所なので、皇居跡という事にもなります。 或る日、仲哀天皇が俄かに崩御。神功皇后は自ら其処に祠を建て、天皇の御霊を斎き祀られました。これが香椎宮の起源です。(古宮跡) 皇后はこの時、身籠っておられました。その御子が、三韓から戻った後に宇美八幡宮で出産された、後の応神天皇です。 神門の前に立つ大きな御神木"綾杉"は、三韓から戻った皇后が此処に三種の神器を埋めてその上に、「永遠に本廟を鎮護すべし」と祈りを込めて、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものが成長したと伝えられます。 神功皇后が亡くなって450年後、皇后ご自身の御神託により、仲哀天皇の神祠の側に新たに社殿を造営して皇后の御霊を祀りました。 以後、両宮を合わせて香椎廟と称していましたが、大正4年の勅旨により、天皇と皇后を御同座で奉斎するようになったそうです。 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、そして重臣武内宿祢の伝説は、古の弥生後期から古墳前期の物語ですが、ここ香椎宮の境内は、往時の息吹を感じる気がするほど、神聖で優しい空気に包まれています。 香椎宮の狛犬は小顔で筋骨隆々の、マッスル狛犬さん。「阿吽」の狛犬吽形(門から向かって左側)を触って手に運を付け、そして楼門から鳥居が見える位置に立つと、門と鳥居で「開」の文字に見え、「運が開ける」と言われています。 御朱印は祭事には拝殿脇の札所で書いて頂けますが、普段は楼門近くの社務所で頂きます。 綾杉と菊の紋が織り込まれたオリジナル朱印帳があります。
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香椎宮は嘗て「香椎廟」と称した特異な社で、仲哀天皇の殯(200年)に始まる古社であるのに、延喜式には見えない。「香椎」の語源も、当社古宮の伝承に拠ると、仲哀天皇の棺を持たせかけた椎木が香ったからという。日本書紀は「香椎」とはせず「橿日」とする。 (仲哀天皇八年春正月)己亥、儺縣に到る。因以て橿日宮に居ます。… 九年春二月。足仲彥天皇、筑紫橿日宮に崩る。… (三月)戊子。皇后、熊鷲を擊たむと欲し橿日宮より松峽宮に遷りたまふ。 古事記は「訶志比」とする。 帶中日子天皇、穴門の豐浦宮及ひ筑紫訶志比宮に坐し、天下治むる也。 何れも音を当てただけに見えるし、仲哀天皇が皇居を据えた時から「かしひ」だったように記されている。古宮には神木「椎木」が立つけれど、「橿(樫)」の木もあったのだろうか。 仲哀天皇の殯というのは古事記に拠ると、神功皇后による神託を受け入れず熊襲征伐に固執した仲哀天皇が、その夜のうちに変死したためとする。 其の大后なる息長帶日賣命は、當時神歸りたまふ。故、天皇、筑紫の訶志比宮に坐し、將に熊曾國擊たむの時、天皇御琴控かせられて、建內宿禰大臣を沙庭に居し、神の命請ひまつる。 是に於て、大后に歸りたまふ神、言教り覺し詔ひしは「西方國有り。金銀本より爲て、目之炎と耀く種種の珍しき寶、其の國多に在り。吾今ぞ歸り其の國賜わむ。」 天皇これに答へ白しく「高き地に登り、西の方見るも、國土は見ず、唯大海の有り。」謂ひ神の詐りと爲して、御琴控かず押し退け默し坐せり。 して其の神大きに忿りて詔ふに「凡そ茲なる天下は、汝が知らすに應はざる國。汝は一道向ふ。」 是に於て、建內宿禰大臣白すに「恐し我が天皇、猶ほ其の大御琴あそばせ。」 されば稍に其の御琴取り依せて、なまなまに控き坐せり。故、未だ御琴之音幾久しく聞かずして、卽ち火を擧げて見れば、既に崩り訖んぬ。 して驚き懼れて、殯宮に坐し、更に國之大ぬさ取りて、種種求むは生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚の罪が類ひ、國之大祓と爲して、亦建內宿禰を沙庭に居して、神之命請ひまつる。 日本書紀にも同じような記事、但し殯(もがり)は穴門(下関)豊浦宮で済ませたように書いてある。 竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。 続けて 九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。 と念を押しているので、仲哀天皇が香椎で崩御したのは記紀に共通。お怒りの神は住吉三神だったらしく、古事記では「是、天照大神之御心者。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大神者也。」と神託で名乗る。不思議なことに原註で(此の時、其の三柱大神之御名は顯る也。)という。これが博多に祀る住吉三神であるらしい。 香椎宮は物理的には、大社とするほど広大ではない。まあ周囲は開発され尽くしているので、色々埋まっているかもしれないが。 何も無い頃は、目の前に志賀島が見えた筈で、志賀海神社と行き来してみれば、その近さがわかると思う。仲哀天皇にしてみれば、志賀島を本拠とする安曇族を当てにしたのであろう。でも神功皇后は綿津見三神でなく住吉三神に縋った。 これを政変と見る向きも多いけれど、上代の人々が現代人と同じメンタリティを以て行動した筈もない。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』を読み返すと、人の心というものが神々に代わり、徐々に育ってきた過程がわかる。神功皇后までは、人の意志ではなく神々が、人の行動を規定したのであろう。
三文詩人

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古くは香椎廟と称し香椎宮となったのは明治以降と言う。元々廟として扱われていた為に、普通の神社の生い立ちとは違い古社であるにも関わらず延喜式神名帳に記載が無いなど、奇異な歴史を持つ。 旧社格は官幣大社、現在は勅祭社であり、別表神社に列せられています。主祭神は仲哀天皇、神功皇后で配神は応神天皇(仲哀天皇の御子)と住吉三神。云われによると仲哀天皇は九州平定の為、香椎の地で執務を執られた。その際に住吉大神から新羅を討つようにとの託宣が下ったが、天皇は出兵しなかった為、住吉大神の怒りに触れ崩御してしまう。后の神功皇后は身重でありながら新羅に出兵、住吉大神の御加護により戦わずして新羅を平定。仲哀天皇9年(200年)に仲哀天皇の崩御された香椎の地に祠を建て、神霊を祀ったのが起源とされます。その後元正天皇の養老7年(723年)に神功皇后の御神託により皇后廟も造営する事となり、元亀元年(724年)に竣工した後、二廟を併せて香椎廟と総称する様になったと伝えられています。廟であった為に神階は与えられていません。しかしながら新羅の無礼に対する奉幣が伊勢神宮、大神神社(奈良)、住吉神社(福岡)、宇佐神宮と共に為されたり、仁明天皇即位の奉幣が行われたり、即位、天災、外寇の度に幾度となく奉幣、勅使が行われるなど、神社に近い扱いだったそうです。天元二年(979年)の太政官符によると「大宮司を置く」との記述がある事から平安時代には他の神社と同じ扱いを受ける様になったとの事。またこの頃は九州では宇佐神宮に準ずる扱いを受けたと記されており、事ある毎に宇佐香椎使が遣わされ、伊勢神宮、氣比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所の一つにもなり隆盛を極めました。御祭神が仲哀天皇、神功皇后である事から宇佐神宮の親神様と言われ、また元宮とも言われています。その後社領が大宰府政庁に移されたり、石清水八幡宮に移されたりと変遷を重ね元寇の後は大友氏の支配下になりました。大友氏は背後の立花山に立花山城を築きましたが、島津に攻め落とされその際に社殿を焼失、また豊臣秀吉に社領を没収されたりして一時は荒廃しましたが、小早川隆景が神田寄付と社殿再建をしました(小早川秀秋は再度没収したが)。江戸時代になると黒田氏から崇敬されましたが、寛永14年(1637年)に社殿を焼失。寛永21年(1644年)に黒田忠之により再建、享和元年(1801年)に改築されたのが、現在の社殿となります。社殿は国の重要文化財に指定されています。千鳥破風を正面に持つ入り母屋造の拝殿は左右に車寄せがあり、正面、左右に向拝を設けています。内部は外陣、内陣、内々陣に分かれかつ左右に獅子間一間を設けます。この造りは香椎造と呼ばれ、香椎宮にしかない極めて特徴的な建築です。境内は凛とした空気が漂っており清清しいです。参道の勅使道からも荘厳な雰囲気が伝わってきます。駐車場も広くて無料、またスロープの参道もありバリアフリーになっています。今日は残念ながら甘酒を頂く事は出来ませんでした(時間切れの為)。普段は人が少ないのでゆっくり見てまわる事が出来ます。 (2021.04.14情報追加)
Akira Nishi

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旧社格は最高等級の官幣大社。九州には、宇佐神宮と香椎宮だけです。 全国に十六社しかない勅祭社の一社で、本宮では十年毎に執り行われています。 仲哀天皇(日本武尊の息子)が神功皇后を伴いこの地で一年間治世を行いました。その間は、まさに此処が日本の中心だった訳です。 奥の古宮跡は当時お住まいが在った場所なので、皇居跡という事にもなります。 或る日、仲哀天皇が俄かに崩御。神功皇后は自ら其処に祠を建て、天皇の御霊を斎き祀られました。これが香椎宮の起源です。(古宮跡) 皇后はこの時、身籠っておられました。その御子が、三韓から戻った後に宇美八幡宮で出産された、後の応神天皇です。 神門の前に立つ大きな御神木"綾杉"は、三韓から戻った皇后が此処に三種の神器を埋めてその上に、「永遠に本廟を鎮護すべし」と祈りを込めて、鎧の袖に挿していた杉枝を植えたものが成長したと伝えられます。 神功皇后が亡くなって450年後、皇后ご自身の御神託により、仲哀天皇の神祠の側に新たに社殿を造営して皇后の御霊を祀りました。 以後、両宮を合わせて香椎廟と称していましたが、大正4年の勅旨により、天皇と皇后を御同座で奉斎するようになったそうです。 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、そして重臣武内宿祢の伝説は、古の弥生後期から古墳前期の物語ですが、ここ香椎宮の境内は、往時の息吹を感じる気がするほど、神聖で優しい空気に包まれています。 香椎宮の狛犬は小顔で筋骨隆々の、マッスル狛犬さん。「阿吽」の狛犬吽形(門から向かって左側)を触って手に運を付け、そして楼門から鳥居が見える位置に立つと、門と鳥居で「開」の文字に見え、「運が開ける」と言われています。 御朱印は祭事には拝殿脇の札所で書いて頂けますが、普段は楼門近くの社務所で頂きます。 綾杉と菊の紋が織り込まれたオリジナル朱印帳があります。
Hatsune Kamura (hatchie)

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