香椎宮は嘗て「香椎廟」と称した特異な社で、仲哀天皇の殯(200年)に始まる古社であるのに、延喜式には見えない。「香椎」の語源も、当社古宮の伝承に拠ると、仲哀天皇の棺を持たせかけた椎木が香ったからという。日本書紀は「香椎」とはせず「橿日」とする。
(仲哀天皇八年春正月)己亥、儺縣に到る。因以て橿日宮に居ます。… 九年春二月。足仲彥天皇、筑紫橿日宮に崩る。… (三月)戊子。皇后、熊鷲を擊たむと欲し橿日宮より松峽宮に遷りたまふ。
古事記は「訶志比」とする。
帶中日子天皇、穴門の豐浦宮及ひ筑紫訶志比宮に坐し、天下治むる也。
何れも音を当てただけに見えるし、仲哀天皇が皇居を据えた時から「かしひ」だったように記されている。古宮には神木「椎木」が立つけれど、「橿(樫)」の木もあったのだろうか。 仲哀天皇の殯というのは古事記に拠ると、神功皇后による神託を受け入れず熊襲征伐に固執した仲哀天皇が、その夜のうちに変死したためとする。
其の大后なる息長帶日賣命は、當時神歸りたまふ。故、天皇、筑紫の訶志比宮に坐し、將に熊曾國擊たむの時、天皇御琴控かせられて、建內宿禰大臣を沙庭に居し、神の命請ひまつる。 是に於て、大后に歸りたまふ神、言教り覺し詔ひしは「西方國有り。金銀本より爲て、目之炎と耀く種種の珍しき寶、其の國多に在り。吾今ぞ歸り其の國賜わむ。」 天皇これに答へ白しく「高き地に登り、西の方見るも、國土は見ず、唯大海の有り。」謂ひ神の詐りと爲して、御琴控かず押し退け默し坐せり。 して其の神大きに忿りて詔ふに「凡そ茲なる天下は、汝が知らすに應はざる國。汝は一道向ふ。」 是に於て、建內宿禰大臣白すに「恐し我が天皇、猶ほ其の大御琴あそばせ。」 されば稍に其の御琴取り依せて、なまなまに控き坐せり。故、未だ御琴之音幾久しく聞かずして、卽ち火を擧げて見れば、既に崩り訖んぬ。 して驚き懼れて、殯宮に坐し、更に國之大ぬさ取りて、種種求むは生剥・逆剥・阿離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鷄婚の罪が類ひ、國之大祓と爲して、亦建內宿禰を沙庭に居して、神之命請ひまつる。
日本書紀にも同じような記事、但し殯(もがり)は穴門(下関)豊浦宮で済ませたように書いてある。
竊收天皇之屍、付武內宿禰、以從海路遷穴門、而殯于豐浦宮、爲无火殯斂。无火殯斂、此謂褒那之阿餓利。甲子、大臣武內宿禰、自穴門還之、復奏於皇后。是年、由新羅役、以不得葬天皇也。
続けて
九年春二月、足仲彥天皇崩於筑紫橿日宮。
と念を押しているので、仲哀天皇が香椎で崩御したのは記紀に共通。お怒りの神は住吉三神だったらしく、古事記では「是、天照大神之御心者。亦底筒男・中筒男・上筒男、三柱大神者也。」と神託で名乗る。不思議なことに原註で(此の時、其の三柱大神之御名は顯る也。)という。これが博多に祀る住吉三神であるらしい。
香椎宮は物理的には、大社とするほど広大ではない。まあ周囲は開発され尽くしているので、色々埋まっているかもしれないが。 何も無い頃は、目の前に志賀島が見えた筈で、志賀海神社と行き来してみれば、その近さがわかると思う。仲哀天皇にしてみれば、志賀島を本拠とする安曇族を当てにしたのであろう。でも神功皇后は綿津見三神でなく住吉三神に縋った。 これを政変と見る向きも多いけれど、上代の人々が現代人と同じメンタリティを以て行動した筈もない。ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』を読み返すと、人の心というものが神々に代わり、徐々に育ってきた過程がわかる。神功皇后までは、人の意志ではなく神々が、人の行...
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