志賀海神社は「龍の都」「海神の総本社」とたたえられ、古代の海人族 阿曇氏(安曇氏)の氏神として、今日まで阿曇氏によって守られ、志賀海神社の宮司は阿曇家が代々務めている。
御祭神である綿津見三神が、禊祓で出現された神であることから、不浄を特に嫌い、諸々の穢 (けがれ)・厄 (やく)・災 (わざわい)・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、人間の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現するとされている。
「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意で、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になると言われている。
志賀島は天明四年 (1784年) に『漢委奴国王』という文字が刻まれた金印が発見された場所である。金印は後漢の光武帝が建武中元2年 (57年) に奴国の使者にさずけたものとされている
金印発見地は島の南部で、能古島との海峡をのぞむ山腹にあり、記念碑が立っている。国宝 金印は福岡市博物館に展示されている。
阿曇氏とその氏神である志加海神社 (現在の志賀海神社) と奴国との関わりを推測する説もある。
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古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝であり、その一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。
阿曇氏が大和政権に服属した段階で、九州の海人族の長から、摂津国を拠点とする海人部を統率する伴造の地位についたものと推定されている。
阿曇氏は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島という「しか」「あつみ」という地名は、阿曇氏の遺称地と伝えられる。
安曇野を拓いたという安曇氏 (阿曇氏) の起源は非常に古く、古事記には安曇族の祖先神は「綿津見命 (わだつみのみこと)」 とその子の「穂高見命 (ほたかみのみこと)」であると書かれている。旧穂高町は安曇族の祖先神を地名としている。
阿曇氏の分布は、北部九州、鳥取、大阪、京都、滋賀、愛知、岐阜、群馬、長野と広範囲にわたっており、「アツミ」や「アズミ」の地名を残しており、その北限にあたるのが安曇野である。 阿曇氏はすぐれた航海術と稲作技術を持ち、古代の海人族の中で最も有力な氏族だったようである。大和朝廷から連 (むらじ) の身分を受け、中国や朝鮮にもたびたび渡っていたと言われている。 661年に阿曇比羅夫 (あずみのひらふ) は、阿倍比羅夫らとともに百済救援におもむき、663年の白村江の戦いでは、外征軍の大将軍として船170隻を率いて出征し、百済王子余豊璋を本国に送還して即位させた ....
阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征 (三韓征伐) において舵取りを務めたとも伝えられる。神功皇后は三韓征伐に際して、住吉神社の化身である龍神より「干珠満珠」(満つる珠、干る珠) を授かり、無事に三韓を平定して帰還されたという神話がある。
阿曇磯良を召し出そうと神功皇后が7日7晩神楽を奏したところが「舞能ヶ浜」、志賀島に着いて願いがかなったと宣ったところが「叶ヶ浜」、神功皇后が馬から下りられたところが「下馬ヶ浜」、志賀海神社の祭神に奉賽した際に、馬が喜んで嘶いたので「勝馬」となったといわれている。志賀海神社裏手の山を「勝山」と称し、そこに船の櫂を奉ったという。
志賀島は玄海灘の要衝の島であり、瀬戸内海から筑紫、また筑紫から壱岐・対馬を経て大陸に向かう人々が航海の安全を祈願した島だったと想像できる。
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志賀島は博多湾口に位置し、陸から延びた海の中道とつながり、博多湾と玄界灘とを区切る陸繋島である。1931年の架橋で完全に陸路連絡された。
歴史的には長く糟屋郡 (志珂郷(しかごう)⇒ 志賀町)だったが、1971年福岡市に編入された。糟屋郡には神功皇后伝説が残る糟屋郡宇美町の宇美八幡宮がある。神功皇后が三韓征伐より御帰還され、産所を定め、側の槐の木の枝に取りすがって、応仁天皇を安産で出産したことで、この地を宇瀰 (うみ、宇美) と称した。
志賀島は玄海国定公園に属し、史跡に富む景勝地である。 「和名抄」所載の糟屋郡志珂郷が志賀島を指すとする説が有力である。阿曇氏の発祥地は、志賀海神社のある志賀島から、福岡市東区と福岡県糟屋郡新宮町付近の一帯と推測されている。
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「釈日本紀」所引の「筑前国風土記」逸文には、神功皇后の船が「資珂嶋」に泊まったある夜、火を求めにやった従者の小浜が「此の嶋と打昇の浜と近く相連接けり」と報告したので、この島を「近島」といい、今は転訛して「資珂(しか)島」となったとする起源説話がある。
「日本書紀」応神天皇三年一一月条に、阿曇連の祖・大浜宿禰を海人の宰に任命するという記事がある。 阿曇氏は海部を統轄した伴造として知られるが、元来の本拠地は志賀島から糟屋郡阿曇郷にかけての地域と考えられ、神話にある伊耶那岐神の禊の段で、中つ瀬で禊をした際に生まれた三柱の綿津見神 (綿津見三神) である底津少童命・中津少童命・表津少童命の海神は、阿曇連らが祀る「筑紫斯香神」であるという記事がみえる。
「延喜式」神名帳に載る「志加海神社三座」がこれにあたる。 対馬の和多都美神社は、志賀海神社と同じ綿津見神を奉祀した神社であり、阿曇族によって九州から朝鮮半島への交易ルートが確保されていたと推測される。
和多都美神社の祭神は豊玉彦命 (大綿津見神) で、社家文書によれば、山城國長岡の阿曇龍裔という人が、神武天皇の命を受けて対馬國に下り、当国の住人となってその子孫が代々宮司を世襲したという。
現在も阿曇氏の末裔が宮司を継承し、今に伝えている点も、志賀海神社と同じである。 ....
志賀島は博多湾の突端にあるので、文永・弘安の役 (1274・1281年) では蒙古軍に占領され、肥前の鷹島とならぶ主戦場となった。志賀島には元寇の際の蒙古塚 (蒙古軍供養塔賛) がある。 また、志賀海神社社宝として、国指定重要文化財の朝鮮製鍍金鐘 (朝鮮鐘。高麗時代・高さ53.1cm) がある。
15世紀中ごろ、大内氏の北九州進出によって大内盛見は島の倭寇を配下に収め、大内持世は永享11年 (1439年) 志賀海神社を再興し、大内氏の領するところとなった。 戦国時代終わりごろに大内義隆、小早川隆景等により再建され、江戸時代以後は黒田長政はじめ、代々の黒田藩主により保護された。 ....
阿曇氏は、律令制の下で、宮内省に属する内膳司 (天皇の食事の調理を司る)...
Read more志賀海神社 略記 御祭神 左殿 仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ) 中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ) 右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
御由緒 古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。 御祭神は、伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊払(ミソギハラヒ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。 御祭神が、禊払で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。 当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。二世紀(遅くとも四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。 往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石を有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元寇の役など国家の非常の際に赫々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)十五位上、『延喜式』には名神大社、大正五年(一九二七年)には官幣小社の殊遇をうけている。
御例祭 御神幸祭 十月第二日曜日前後(隔年斎行) 国土祭 十月第二月曜日(流鏑馬奉納) 特殊神事 歩射祭、御神幸祭、山誉(種蒔)漁猟祭 (福岡県無形民俗文化財)
境内掲示由緒 ーーーーーーーーーーーーーーー
志賀海神社 官幣小社 糟屋郡志賀島村大字志賀島字勝山 祭神 底津綿津見神(中殿)、仲津綿津見神(右殿)、表津綿津見神(左殿)、配祀玉依媛命(中殿)、神功皇后(右殿)、応神天皇(左殿)
由緒 当神社略記に曰く、人皇第十二代景行天皇即位十二年、九州御巡幸の砌当社に祈禱あらせられる。因て見るに御創建は是より遙に上代なること明かなり。 古事記上巻に、此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也。阿曇連者其綿津見神子宇都志日金折命之子孫也。 𦾔事記に底津少童命、仲津少童命、表津少童命(綿津見神の別号)此三神者、安曇連等所祭筑紫斯香神也。 即ち神代の昔伊弉那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ、身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして、海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ、諸処の海の幸を知食し給ふ故に、神功皇后御征韓に際しては、神裔阿曇磯良丸命をして舟師を率ゐ御舟を導かしめ給ひ、又元寇の役、近くは日本海々戰等国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり。 さらば屢々勅使の奉幣あり、延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸を奉り神階を給ふ等、上下の尊崇深厚を極め、神領等も頗る多く、仲津宮沖津宮と共に三社別々に鎭祭せられ結構壮麗を極めたりしが、其の後久しく兵亂打ち續き神領等も次第に失ひて漸次衰徴するに至れり。 然るに豊臣秀吉九州出陣に際し、朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相ついで社殿の造営神領の寄進等ありて、凡そ面目を改めたるも尚到底昔日の比にあらず。 明治五年四月十五日僅かに村社に指定せられたる状態なりしが、大正十五年一月四日官幣小社に昇格仰出されたり。 千早振る金の御崎を過れ共 われは忘れし 志賀の皇神 万葉集 三笠山さしてやかよふ志賀の島 神のちかひのへたてなけれは 細川幽斎 神社は諸尊禊祓の古事を伝へ、天浮橋の伝説を秘する白砂青松長汀三里の海の中道さながらに沼矛(ぬほこ)の如く海表に突出したる處僅かに長橋を以て結べる霊島にして、神域は所謂志賀三山と称する勝山、御笠山、衣笠山を負ひ、面積凡そ三萬坪老樹鬱蒼として森厳幽邃極まりなし。社殿東方直下は黒潮躍る玄海の怒濤玉を結び、正面はこれ天然の良港博多湾鏡の如く静かなり、古来龍の都或は龍宮と称せたるも又以て故あることなり。 名にし負ふ龍の都のあととめて 波をわけゆく 海の中道 細川幽斎 浪風をおさめて海の中まても 道ある国に またも来て見む 宗祇法師 海神として、帝国海軍の祖神として、或は漁業者海運業者等の守護神として信仰最も厚く、或は禊払の神として除災開運を恵ませ給ひ、吾人が日常缺くべからざる御鹽(鹽気)を授け給ひ、又潮の満干により人の生死(命)を司らせ給ふ外、鹿島立(志賀島立)と称し海陸空の旅行安全武運長久を守護せらる。依て古来裏参宮或は島参宮と称し、庶民の信仰極めて篤し。
特殊祭事 (略)
例祭日 九月九日 主なる建造物 本殿、拝殿、楼門、神饌所、社務所、神庫 主なる宝物 古代半鐘(国宝) 朱雀天皇御宸筆、御太刀(雲生作)、社頭古図、神功皇后御征韓御絵図、古文書、狛犬、鹿の角(数千本) 氏子区域及び戸数 志賀島村の内志賀島字勝馬、字弘、戸数約五百戸 境内神社 今宮神社(宇都志金折神、住吉三神、天児屋根命) 惣社(八百万神) 大神宮(天照皇大神、豊受大神) 祇園社(素戔嗚命) 荒神社(奥津比古神、奥津比賣神、火産霊神) 松尾社(大山咋神) 秋葉社(火具土神) 磯崎社(大己貴神、少彦名神) 山神社(大山祇神) 船玉社(天磐楠船神) 不勿來社(久那土神) 愛宕社(加具土神) 摂社 沖津神社(表津綿津見神、天御中主神) 仲津神社(仲津綿津見神)
■福岡...
Read moreShikaumi Shrine is a local shrine where people worship for maritime safety. The path leading to the shrine is surrounded by tall trees which gives visitors a natural atmosphere. Although you will have to climb some stairs before reaching the shrine, it is worth it as the shrine itself is very well maintained. You can still see some old structures such as the stone bridge in front of the gate. The shrine also has information boards that explain the history of some of its buildings. For example, there is a warehouse storing over ten thousand antlers for worshipping the god. Additionally, you will also see the beautiful sea view...
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