城の形状 平城 天守閣 独立式層塔型3重4階御三階櫓(現在は無い)
・歴史 文安2年(1445年)川手城の守護のために土岐氏に仕えていた斎藤利永により築城された。その後天文7年(1538年)〜関ヶ原の戦いまで廃城となり放置される。
慶長7年(1602年)徳川家康公の義理の息子(家康公の長女・亀姫の娘婿)にあたる奥平信昌が入城します。娘の婿のために家康公自らが築城に携わり、さらに本多忠勝が普請奉行となり近隣大名を動員した天下普請の築城を開始します。加納城には、岐阜城の廃材が利用され、当時の岐阜城は加納城二の丸にあった御三階櫓に転用され、本丸が完成と同時に加納藩が立藩します。 加納信昌の石高は10万石。家督を忠政に譲ったが忠政に6万石を譲ったが、隠居料と称して4万石は自身で所領し実質的に藩の実権を握りました。その後、忠政が35歳の若さで先立たれてしまったため大阪冬・夏の陣に参加出来ず、自身も元和元年(1615年)に死去。家督は忠政の子の忠隆が継ぎますがやはり25歳の若さで急死し奥平家は断絶してしまいます。
替わって、信昌の外孫にあたる大久保忠職(ただもと)が5万石で入封するも、すぐに2万石加増され播磨(現在の兵庫県)明石藩に転封します。
入れ替わるように松平(戸田系)光重が7万石で入封します。光重は農民に対して厳しい年貢を取り立てました。そのため幕府に対して直訴が相次いだため、光重の子、光熙(みつひろ)は1万石減封され6万石で山城(現在の京都府)淀藩へ移封されます。
替わって、備中(現在の岡山県)松山藩(もしくは高梁藩=たかはし・はん)から安藤信友が6.5万石で入封します。信友は非常に優秀な藩主で幕府の要職の寺社仏閣を取り仕切る寺社奉行、幕府中枢の政治を取り扱う老中として活躍するが、信友から家督を継いだ信尹(のぶただ)は逆に非常に凡庸な人間で贅沢三昧な藩主だったため藩の財政は悪化し、年貢や御用金要求が重なり百姓の生活は困窮してしまい、他藩に逃げ出す百姓が出てしまい、家臣たちは信尹を幽閉してしまいます。しかしこのことが幕府にばれて、信尹は強制的に隠居させられ、5万石に減封され陸奥(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県のこと)磐城平藩へ移封されます。
武蔵(現在の東京都、埼玉県の一部)岩槻藩より永井直陳(なおのぶ)が3.2万石で入封し以降明治維新まで永井家が統治します。歴代の藩主の中に幕府の要職の若年寄を輩出しています。戊辰戦争では藩主永井尚服(ながい・なおこと)は、岩倉具視(いわくら・ともみ)の3男岩倉具定に帰順し新政府軍として従軍し明治2年(1869年)の版籍奉還時に加納藩知事、明治4年(1871年)に廃藩置県で加納藩は加納県に明治5年(1872年)に加納県は岐阜県に編入されました。藩主は子爵となります。
廃城令が出された後に城は破却されます。明治33年(1900年)に岐阜県師範学校が置かれ、本丸跡地には運動場がつくられます。明治39年(1906年)に三の丸跡地に加納尋常小学校が移転となり昭和14年(1939年)に日本陸軍第51航空師団司令部がおかれ、戦後、昭和29年(1954年)〜昭和50年(1975)まで自衛隊の駐屯地となる。
昭和58年(1983年)に加納城跡地は国の史跡に指定されます。
・加納藩の産業 加納藩では、現在の岐阜県の伝統工芸品になる和傘が盛んで年間50万本の和傘を作っていました。今日の岐阜和傘に受け継がれています。
アクセス JR東海道本線、高山本線、名鉄名古屋本線、名鉄各務原線、岐...
Read more中学時代、ある土曜の午後の事…同級生達とこちらの公園でバレーの円陣パスをしていたら、少し離れた場所から私達をじっと見つめている1人の男が居た。 最初はみんなあまり気に留めていなかったが、男は『ファイナルファンタジーシリーズ』のどんべりの様にゆっくりとだが少しずつ近付いて来ていたので、だんだんと私達はチラチラと男の様子を伺いながら円陣パスを続けていた。 男は高校生にも見えるし中年男性にも見えた。 ラコステのポロシャツをケミカルウォッシュのジーンズにきっちりとinした男は片手に持っていたマジソン・スクエア・ガーデンバッグからおもむろに野球グローブを取り出すと、私達に「やらないか!キャッチボール」と言ってきた。 どうにも断りにくい雰囲気だったので、リーダー格のタナカ君が名乗りをあげ、グローブを受け取ると男とキャッチボールを始めた。 私達は少し離れた所で見学をしていたが、数分後にタナカ君は「そろそろ塾の時間だから、誰か代わってくれよ」と言ってトコテンと交代した。 タナカ君は帰り際に私の所に来ると「あいつヤベェから早く帰った方がいいぞ」と言って去って行った。 最初からヤベェ奴なのは折り込み済みだが、どうヤベェのか聞きそびれてしまったので私はしばらく観察をしていた。 男は巨人の桑田投手ばりにボールに向かって何やら呟いており、その声がだんだん大きくなっていき見学していた私達にも聞こえてきたから分かったのだが男はしきりに「今の球、よく捕ったな!」とか「これは捕れるかな?」とかずっと独り言を言っているのだ。 男のヤバさに気付きはじめた私達の中には理由を付けて帰りはじめた者をいたが、私はなんだが面白い事にならないかなと期待していたのだった… しかし男は独り言を言う以外は特に奇矯な行動を起こすこともなく、ただ時間だけが過ぎていった… 辺りが薄暗くなって来たところで男が「これで最後だ!次は必殺の魔球を投げる、捕れるかな?」と言うと、思いっ切りあらぬ方向にボールを投げてそのまま立ち去って行った…
すっかり帰りが遅くなってしまった為、土曜日に『週刊少年ジャンプ』を密売する本屋に立ち寄るも既に売り切れており、毎週楽しみにしていた『5時サタマガジン』も見逃してしまった…
週明けの月曜日、用事があったので早朝に加納桜道を学校に向かって歩いていたら、前から件の男が二人現れた。(双子だったんだ!)と驚くのも束の間、双子は「さぁどうする?」と言うや、笑いながら歩道をふさぐ様に並んで路上に仰向けに寝そべった。 これは禅問答か何かと思ったが、私は踵を返すと、来た道を引き返した。 背中から双子の高笑いが聞こえてきたが、振り返らず足...
Read more【加納城】 加納城は、徳川家康が慶長5(1600)年の関ケ原合戦の直後、築城を命じた城です。 北から南へ5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大義曲輪)があり、それらは堀と川に囲まれ、「水に浮かぶ城」という景観でした。また、石垣などは関ケ原合戦で落城した岐阜城から運んだと伝えられています。 初代城主は徳川家康の長女「亀姫」の婿、奥平信昌で...
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