川手城跡 美濃国守護職の土岐氏が築城し最も繁栄した時期(美濃、尾張、伊勢国の守護時代)の中心地で、川手の町は賑やかだったそうです。川手は当時の木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた立地で、川を天然の堀として城を築いたことがわかります。 土岐頼芸の時代には廃城となり織田信長が岐阜の町を繁栄させている頃には川手の町人も岐阜に移っていったとされます。 現在城跡は済美高校の敷地になっており校内に石碑があります。当時の土塁の一部も残っていますが、ここが城だった面影は全くありません。 【歴史】 南北朝時代の武将土岐頼康が正平8年(1353年)川手城を築城し、それまでの居城長森城から本拠を移し美濃を平定。またこの時代の頼康は尾張守護と伊勢守護にも任じられ最大権力を有していました。 その後も川手城は守護職土岐氏の本拠地として栄えており、応仁元年(1467年)応仁の乱により都から逃げ延びた公家が土岐氏を頼り川手に移住すると京の文化が持ち込まれ繁栄したと言います。当時の繁栄ぶりは西の山口(大内氏)東の川手と言われたほどでした。 川手城は第11代土岐頼芸が斎藤道三によって追放された後は廃城となったようです。 このように川手城は土岐氏3代頼康〜11代頼芸の約200年間、美濃の守護所として存在しました。
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Read more川手城(かわてじょう)は、現在の岐阜県岐阜市正法寺町にあった、南北朝時代から戦国時代の日本の城である。別名革手城。美濃源氏の一族の土岐氏の第3代守護職、土岐頼康は、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の3ヶ国の守護職となる。手狭となった長森城に代わり、1353年(文和2年)、川手城を築城する。以降第11代土岐頼芸までの本拠地となる。旧木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた自然の要塞といってよい地に築かれた城郭であった。城郭といっても、広大な敷地に神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は...
Read more長森城から移った美濃国守護の土岐氏によって代々治められた。応仁の乱の際には戦火から逃れた人々や足利義視(義政弟)足利義材(10代将軍)父子も11年滞在したとのことで繁栄したが、のちの戦乱や斎藤道三が稲葉山城にうつしたことにより廃城になった。加納城に土砂も使われたので痕跡は全くないとのこと。 跡地は女子校だが石碑と説明板と公園スペースが確保されてて気兼ねなく訪れるこ...
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