三方ヶ原の合戦の一部と見なされる古戦場です。かつては幅50m、深さ40m、長さ2kmもの規模があったとされる犀ヶ崖も、長年の間に崩れたり埋められたりして、今では幅30m、深さ13m、長さ400mほどと小さくなりました。昭和11年の埋め立てにより、西端は国道257号線で途切れていますが、合戦当時はもっと北西方向に延びていたものと私は想像しています。
「仮に犀ヶ崖が存在せず浜松城周辺の地形が平らであったなら、武田軍は多くの兵を崖から転落させることもなく、2万5千の大軍で浜松城を攻めることもできたのでは?」と私は考えました。もし武田軍が総力戦を仕掛けたとしたら浜松城は攻略され、家康は討ち取られたか降伏していたことでしょう。
その結果、浜松は武田領となって高天神城の戦いは起こらず、長篠の戦いはあったとしても戦況は変わり、関ヶ原の戦いすら起きなかったかもしれません。当然徳川幕府による江戸時代も誕生せず、今日に至る450年の歴史は全く異なっていたはずです。そのような理由により「犀ヶ崖および浜松城周辺の地形そのものが日本の歴史に大きな影響を与えた」と私は考えています。天然の要害とも言える地形を巧みに利用した、家康の築城センスは見事というほかありません。
武田軍が野営していた場所は北高校東側一帯と推測しますが、当時は数本の谷が入り組んだ台地でした。そのような場所で闇夜に鉄砲隊が脅しをかければ、戦で疲労した末に寝込みを襲われ、地理不案内な武田軍は混乱して、次々と谷底に転落していったことでしょう。
もっとも「空城の計」や「夜襲」等は後世の作り話との説もあります。また白い布を雪が積もった橋に見せかけたという「布橋伝説」も、確かな文献はなく技術的にもあり得ないため、「小豆餅食い逃げ」の類いの、浜松市に伝わる多くの家康伝説のひとつだと思っています。
合戦後の十数日間、武田軍は三方ヶ原からわずか数km先の刑部(おさかべ)村で停滞し越年しています。その間、家康はさぞ眠れない日々を過ごしていたことでしょうが、幸いにも浜松城は攻撃を受けませんでした。四ヶ月後に死を迎える信玄の病状が悪化していたためか、信長の援軍が駆けつける恐れがあったためか、信玄と息子の勝頼は31歳の家康を軽視して、三河の野田城攻略にと向かいました。
何れにしても浜松で家康を見逃したことが、天目山にて勝頼が信長・家康連合軍に滅ぼされる痛恨の結果につながりました。ちなみに2ヶ月半ほど前の「一言坂の戦い(磐田市)」でも、家康は武田軍から見逃されています(真偽は不明)。
歴史的には「三方ヶ原の合戦は家康の大敗北だった」とされています。しかし犀ヶ崖の夜襲により一矢報いて武田軍を退却させたことが事実とすれば、実質的には「7対3程度の負け戦」であったと私は見ています。幾多の戦を生き延びて75歳の長寿を全うした家康は、実力のみならず幸運にも恵ま...
Read more【2024年9月14日☀️】
浜松城行ったら犀ヶ崖もいかないとね ということで激暑☀️の中歩いて行きました 道的には真っ直ぐ登って行く感じで難しくはない…がバス推奨かもね!
もっと山の中とかを想像してたんだけど、意外と町の中にあった😛
実際に崖を見れるなんて!なんて興奮 してたんですが… 木が『うっそ~!』というくらい 鬱蒼と繁ってよく見えない よく見えないけど想像を膨らませてね😛
中に入るとガイドさんが2名いらしゃい まして、説明してくださりました
ビデオ映像もあり崖の木の繁ってない バージョンも見れました(ガッツポーズ)
ビデオを見てる時に夏目次郎左衛門吉信 の話しになり、女性ガイドさんが顕彰碑までいろいろ話しながら連れて行ってくれました(顕彰碑は道路挟んで斜め左。近いです)
ドラマの影響で夏目さんの人気が爆上がり しているとか、最近の小学生のお子さんは 私より詳しい!とか、崖は本当はもっと深かったとかおっしゃってました😀
楽しいお話をたくさんありがとうございました ...
Read moreこの古戦場は、徳川家康が武田信玄に大敗した後、夜襲を仕掛けて武田軍を崖下に落とした場所として知られています。この戦術は、地元の地形を熟知していた家康ならではのもので、武田軍に一矢報いることができました。見晴らし台があり崖の深さを実感できます。
崖に布の橋を掛け、武田軍の目を欺き、次々と崖に転げ落ち大損害を被ったという伝説があり、現在の「布橋」という地名もこの伝説に由来しています。
当時の地形とは変わってしまっていますが、当時は東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁でその深さは約40mに及んでいたそうです。現在は浜松城跡の西北約1kmにある渓谷で、この谷地形が長さ約120m、幅45mにわたって史跡指定されています。
機会があれば渓谷や台地形の様子を見な...
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