【 2021/06/26(土)訪問 】 無料で見学できる犀ヶ崖(さいががけ)資料館は「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」及び「遠州大念仏(えんしゅうだいねんぶつ)」についての理解を深め、郷土に伝わる文化遺産を後世に残していくことを目的としています。
「三方ヶ原の戦い」は元亀(げんき)3年(1572)、武田信玄と徳川家康・織田信長連合軍が三方ヶ原台地で激突した戦いで、武田軍が圧勝し、家康の生涯で最大の敗戦といわれています。武田勢2万5,000人に対し、徳川・織田連合軍は1万1,000人でした。
大敗後、兜(かぶと)を脱いで家臣に化けた家康は、命からがら浜松城に逃げ帰りました🏇💦 城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔(しかみ顔)の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒(じかい:自分自身をいましめること)したと伝えられています。
合戦の夜、家康はなんとか一矢(いっし)を報いようと、城まで追撃してきた武田軍の山県昌景(やまがたまさかげ)勢が浜松城から1km北方の三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖(さいががけ)で野営(やえい)していることを知り、夜襲を命じました。 夜襲に混乱した地理に疎い(うとい→詳しくない)軍勢は布橋(ぬのはし)を渡ろうとして次々と(資料館横の)崖下に転落し、多数の死傷者を出してしまいました。
犀ヶ崖は、三方原台地の水蝕(すいしょく:水による浸食作用)によって亀裂陥没した断崖で、三方ヶ原の戦い当時の崖の規模は「東西:2km 、幅:約50m 、深さ:約40mのV字型」と伝えられています。昭和60年3月時点での大きさは「長さ:約116m 、幅:約29〜34m 、深さ:約13mのU字型」で、「三方ヶ原古戦場」として昭和14年(1939)に静岡県の史跡に指定されています。
山県昌景(やまがたまさかげ 1529-1575)は武田四天王の一人で、軍装を赤一色に揃え、戦国時代最強と謳われた精鋭部隊「赤備え」を率いた人物としても知られます。家康は昌景と交戦してその凄さを実感し、武田滅亡後には井伊直政に昌景の「赤備え」部隊を引き継がせています。
遠州大念仏(えんしゅうだいねんぶつ)は、「三方ヶ原の戦い」及び「犀ヶ崖の戦い」で犠牲となった人を弔うために始まり、この戦いで命を落とした武田勢兵士の鎮魂のために迎え入れられた宗円僧侶の下、行われるようになった行事です。
浜松市を中心に盆(7月あるいは8月)の夜に初盆(はつぼん)の家を回って太鼓や鐘などに合わせて念仏踊りを披露する遠州地方の夏の風物詩で、無形民俗文化財に指定されている郷土芸能です。
※初盆(はつぼん)→人が亡くなってから四十九日を過ぎた後、初めて迎えるお盆のことをいい、地域によっては新盆(にいぼん)と呼ばれています。
小さな資料館で展示スペースは広くないですが、約17分のビデオ📺やボランティアガイドの方の丁寧な説明により、理解が深まりました❗️✨😁👍 また、地元のプロモデラー...
Read moreVisited the museum to collect a manhole card and was greeted by two incredibly kind members of staff. My Japanese is not very good - but they were very patient and helped me to use the museum stamp and gave me some leaflets and information about the local area. I am very grateful that I got to...
Read more武田信玄が若き日の徳川家康をボコボコに叩きのめし、格の違いを見せつけた「三方ヶ原の戦い」に於いて、家康が一矢報いた戦場にあります。大敗後に浜松城に何とか逃げ戻る事に成功した家康は、城まで追撃してきた山県昌景勢が1Km北方の犀ケ崖周辺で野営していることを知り、夜襲を命じました。 山県勢は不案内な敵地に、しかも見通しの効かない夜間に深入りするべきではありませんでした。夜襲に混乱した軍勢の一部が谷底に落ちて、多数の死傷者を出してしまったのです。資料館横にあるガケがその場所です。
ところで歴戦の武田勢27000に対し、徳川織田連合軍11000と数的にも質的にも劣るのに、なぜ家康はあえて城から打って出て三方ヶ原の戦いに及んだのでしょうか。理由は配下達が江戸時代のようなサラリーマンではなく、自身の領地と領民を持つ独立した土豪であった事にあります。
家康は領内の住人と資産を守る安全保証義務を負っており、それが出来なければたとえ自身は無事でも土豪達に見捨てられ、全て武田方に寝返ってしまっても文句は言えないのです。そんな訳で武田勢が領内を蹂躙するのを看過するのは、ありえない行為で打って出るしかなかったのですよ。
結局のところボロ負けはしたものの、鬼神のような信玄にも立ち向かい命をかけて信義を通そうとした事で、契約は何があっても守り、相手が誰であっても逃げない男として家康の人生の勲章とはなりました。
しかし家康も面白い人で、敵であり一度は殺されかけた信玄を終生尊敬し、その手腕技法を生涯学び続けた人でもあるんですよね(笑)。友軍である織田信長のモダニズムや華美さに染まらなかったのは非常に興味深いところです。 平衡感覚のありすぎる常識人の家康にとっては、信玄の重厚さ堅実さ、質朴さが肌にあっていたのでしょう。そういう意味では信玄の真の後継者は実子の武田勝頼ではなく、敵である家康の方だったのかもしれません。
信長秀吉に比べて保守的なイメージの強い家康ですが、ルールと信頼を重んじる点では「独裁者」というより現在の「社長」の感覚に近い人で、だからこそ部下は安心して付いて来れました。この点だけは信長秀吉よりも先んじており、家康からは近...
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